12-濡れたシャツと、密室のステレオ通話

 ​季節外れの豪雨が窓を叩く、土曜の午後。

 俺は、剛の住むマンションのリビングで頭を抱えていた。


​「……で、またやるんですか、由紀子さん」

​「当たり前じゃない! 前回の旅館では不発に終わったけど、今日こそ剛に『危機感』ってやつを植え付けてやるのよ!」

 由紀子さんは鼻息荒く宣言した。

 今日の状況は、彼女にとって絶好のチャンスだった。

 剛は北海道へ出張中。そして美咲は、実家の法事で昨夜から帰省している。つまり、現在この空間には、俺たちの二人しかいない。


 由紀子さんは「家のWi-Fiが繋がらなくて困ってるの! 啓太さん、詳しいでしょ?」という嘘八百で俺を呼び出し、まんまと密室を作り上げたのだ。


​「今日の作戦は『音』よ。二人がいない間に、ちょっとドキッとするような会話を録音して、剛に送りつけるの」

​「勘弁してください……。俺、美咲に嘘つくの嫌なんですけど」

​「大丈夫よ、ただの演技だもの。さあ、景気付けにこれ開けましょ!」

 由紀子さんが取り出したのは、高級そうなシャンパンだった。

「ちょ、昼間から!?」

「いいじゃない、気分が上がれば、啓太さんも演技できるでしょ」


 彼女は俺の制止も聞かず、ボトルの栓に手をかけた。

 しかし、彼女は忘れていた。そのボトルを先ほど一度落としていたことを。


​ ポンッ!!


 ​軽快な破裂音と共に、ボトルから猛烈な勢いで泡が噴き出した。

「えっ、きゃあぁぁっ!?」

「うわっ、危ない!」


 ​俺は咄嗟に由紀子さんを庇おうと手を伸ばしたが、時すでに遅し。

 噴出した液体は、至近距離にいた二人の上半身を、容赦なく直撃した。

「つ、冷たっ……!」

「嘘でしょ、びしょ濡れじゃない……!」


 ​由紀子さんの白いブラウスが、水分を含んで肌に張り付く。透けそうになる生地に、俺は慌てて視線を逸らした。床は水浸し、俺のシャツもぐっしょりと濡れている。甘い匂いと、冷たい感触。最悪のハプニングだ。

「あーもう! 最悪! 拭かなきゃ!」

「と、とりあえずタオルを!」


 ​俺たちがパニックに陥り、互いに濡れた服を拭こうとワタワタしていた、まさにその時だった。

​ ピリリリリリ……!

 ブブブブブブ……!

​ テーブルの上に置いてあった、俺のスマホと由紀子さんのスマホが、示し合わせたように同時に鳴り響いた。

 画面に表示された名前を見て、俺たちの顔から血の気が引いた。

​ 俺のスマホには『剛』。

 由紀子さんのスマホには『美咲さん』。

「げっ、剛!? タイミング悪すぎだろ!」

「美咲さんから!? やだ、どうしよう啓太さん!」

​「で、出るしかないです! 無視したら余計に怪しまれる!」

「そ、そうね! ……シーッ! 静かにしててよ!」


 ​俺たちは互いに人差し指を口に当て、それぞれの電話に出た。

「……あ、もしもし、剛か? どうした?」

「もしもしぃ、美咲さん? お疲れ様ぁ」


 ​俺たちは極力、平静を装った。

 電話の向こうから、剛の能天気な声が聞こえる。


『おう啓太! 今大丈夫か? お前、今日休みだろ?』

​「あ、ああ。休みだよ。……家で、一人で本読んでたところだ」


 ​俺は嘘をついた。今、由紀子さんと家にいるとバレたら、誤解を招く以前に、この「びしょ濡れ」の状況を説明できない。

 一方、由紀子さんも美咲に対してシラを切っていた。


「ええ、今は一人よ。剛出張でいないから退屈で、テレビ見てたの」

 よし。これでいい。あとは早急に電話を切って、着替えるなり帰るなりすれば――。

​ その時だった。

 由紀子さんが、濡れたブラウスの胸元をタオルで拭こうとして、冷たさに思わず声を漏らした。


​「……んっ、冷たっ……」


 ​その声は、静かな部屋の中で、あまりにも艶っぽく響いた。

 俺はギョッとしてそちらを見た。由紀子さんも「しまった」という顔をしている。

 ​剛の声が変わる。


『……ん? 啓太、今、なんか女の声しなかったか?』

​「えっ!? い、いや、テレビだよ! テレビの音!」


 ​俺は必死に誤魔化そうとした。だが、焦った俺の手が、テーブルの上のシャンパンボトルに当たり、再び中身がこぼれた。それが由紀子さんのスカートにかかる。


​「きゃっ! ちょっと啓太さん、どこにかけてるのよ! もうビショビショじゃない!」


 ​由紀子さんが反射的に叫ぶ。

 その瞬間、二つの電話回線を通じ、最悪の音声が二人へ配信された。

『……ん? 啓太さん?』

『……は? ビショビショ?』

 時が止まった。

 俺と美咲、剛と由紀子さん。四人の間に、致命的な沈黙が流れる。

 この状況で「一人だ」と言い張るのは、もはや不可能だった。しかも、聞こえてきた単語は「啓太さん」「かけてる」「ビショビショ」という、誤解を生む役満のようなフレーズだ。

​ 電話の向こうから、これまで聞いたことのない、低く、冷徹な声が聞こえた。

『啓太。……てめぇ、俺の嫁とナニしてやがる』

『由紀子さん? ……啓太と、どんな状況にいらっしゃるのかしら?』


 ​剛の殺気と、美咲の絶対零度の圧力が、電波越しに肌を刺す。

 俺たちは顔面蒼白になり、同時に叫んだ。

「ち、違う! シャンパンだ! シャンパンが暴発したんだ!」

「そうよ! 服が濡れただけ! やましいことは何もないの!」


 ​必死の弁明。しかし、一度火がついたパートナーたちの「独占欲」は、そう簡単には鎮火しなかった。

『濡れた? ……へえ。じゃあ今すぐビデオ通話にしろ。その濡れた服、俺が確認する』

『啓太、聞こえてますよね? まさか、由紀子さんの身体、見てないですよね? 今すぐカメラをオンにしてください?』

​「えっ!? い、いや、今はちょっと絵面がマズイというか……!」

​『見せられないような格好ってことかァ? ああん!?』

『隠すということは、やましいことがあるんですね……?』

 普段はあんなに寛容で、俺たちの潔白を信じてくれていた最強の夫と妻が、今は嫉妬の炎を燃え上がらせている。

 由紀子さんの望み通り、いや、望み以上に「危機感」を抱かせてしまったのだ。

 ​結局、俺たちは震える手でビデオ通話を繋ぎ、水浸しの床と、情けなく濡れそぼった自分たちの姿を晒して、長時間にわたる説教を受けることになった。

ーーー


 ​数日後。

 出張から戻った剛と、実家から戻った美咲を含めた四人で、改めて食事会が開かれた。

「いやー、あの時は焦ったわー! まさか本当に啓太と由紀子がデキてるかと思ったぜ!」


 ​剛はガハハと笑いながらも、由紀子さんの腰に手を回し、いつもより距離が近い。

 美咲も、俺のネクタイを直しながら、耳元で小さく囁いた。

「啓太。……今度嘘ついたら、お仕置きだからね」


 ​その目は笑っているようで、奥に怪しい光を宿している。

​ 由紀子さんは、剛にベタベタされながら、俺にウインクを送ってきた。


(ね? 剛、ちょっとだけ独占欲出してくれたでしょ?)


 ​俺はげっそりと肩を落とした。

 確かに、作戦は大成功だった。二人の余裕を崩し、俺たちへの執着を引き出したのだから。

 だが、その代償として俺の寿命は確実に三年は縮んだ。

 美咲と由紀子さんは、静かに笑い合い、そしてまた同時にため息をついた。

「「…………はぁぁぁぁぁぁぁ…………」」


​「妬かせるのも、命懸けだったみたいですね」

「本当。……でも、必死になってくれるの、嬉しかったわ」

「……由紀子さんは少し反省してください」

 秋の夜長。

 少しだけスリリングなスパイスが加わり、二組の夫婦の絆は、より一層深まったのだった。

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