真説・おとぎ前線 【小説版】
久遠 魂録
秘密の伝承
雫は、手元の契約書をもう一度見下ろした。店の名義変更、家賃の取り決め。全て滞りなく終わったはずだ。長年の夢だった自分の店。しかし、今の彼女には、その夢の重さがのしかかっている。
「これで説明は終わりですか?」
大家さんは、店の隅に置いてあった古い木椅子にゆっくりと腰を下ろした。その表情は、長年の秘密を守ってきた重みを、深い皺に刻んでいる。
「そうね。一応、契約書も書いたし、本当はこれで最後になるけど」
大家さんは、口ごもるように、少し言葉を選んだ。
「なんです?」雫は静かに尋ねる。
「いつもならね。あとは、ここのカギのかかった扉は決して開けない……それだけで済むんだけど」
雫は、部屋の隅にある、古びた、重厚な木製の扉に視線を向けた。
「そうですね。絶対に入ってはいけないんですよね」
「そうね。入ってはいけないけど、あなたの所の社長さんが……ま、まあ、アレだから。あなたには秘密を伝えないといけない」
雫はわずかに顔をこわばらせた。あの社長の行動力と破天荒さは知っている。自分がこの地で店を開くことになった原因も、突き詰めればその社長にある。
「うちの社・長・が……は、よく分からないですが、秘密とは?」
大家さんは身を乗り出し、声を一段と潜めた。
「この話は絶対に他には漏らさない。約束できる?この門前商店街の皆にもずっと秘密にしてることよ……」
雫は一拍置いて、小さく頷いた。その静かな仕草の中に、隠し事の重さを理解する思慮深さが滲んでいた。
「うーん、秘密にされていることなら、特にお伝えしない方が良いのでは?」
「できることなら教えたくないけど、今回ばかりはどうしても無理があるのよ。どちらにしろ、ここであなたが、あのライ、」
大家さんはわざとらしく「コホン」と咳払いをした。
「あの社長さんにお店を任されてるなら、いずれ分かってしまう事。それが早いか遅いかの違い。先に伝えておいた方が少しは楽かと思ってね」
雫は深く静かに息を吐いた。避けられない運命を受け入れるように、彼女は言葉を紡いだ。
「まあ、あの社長が関係してるなら、何かあるんでしょうね。秘密にします。聞かせてください」
大家さんは再び奥の扉へ視線を向けた。そして、ゆっくりと、しかしはっきりと告げた。
「ここは**"おとぎ前線"**なの。この秘密は歴代の宮司さん一族と、大家である私の家系だけの秘密なんだけど……」
「"お・と・ぎ・前・線・"?って何ですか?」
大家さんは、笑みを浮かべ、まるで昔話を聞かせるような穏やかな調子に戻った。
「冗談だと思って聞いてね。あなた、この世界以外に別の世界があるかもって思ったことは?」
「別の世界ですか?……」
雫は想像力を巡らせた。霊界、天界、魔界。その単語を口にする大家さんの声音には、現実の重みがあった。
「その世界と、現実の世界の境界線が**”おとぎ前線”**。それがこの扉の先にあるの。このカギがかかった扉の先に……」
雫は奥の扉を見つめた。その表情に戸惑いはあったが、恐怖や否定の色はない。静かに真実を飲み込もうとしていた。
「秘密にします」
大家さんは、静かに真実を受け入れた雫の様子に満足したように頷いた。
「まあ、いいわ。秘密にしてくれると約束してくれるならそれでいい。秘密を破ったとしても……」
大家さんはそこで一度言葉を切り、少しの間を置いた。そして、苦笑いのようにボソリと呟いた。
「あの社・長・がどうにかするでしょう」
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