第5話:閉じた扉

 そして、運命の11月24日がやってきた。


 前日の23日は祝日だった。僕はその日から彼女の部屋に泊まり込んでいた。部屋の中は暖かく、平和だった。彼女がキッチンでコーヒーを淹れている間、僕はあの白いクマのぬいぐるみの写真を撮って遊んでいた。ファインダー越しの、のんきなクマの顔。背景には、彼女の部屋のカーテンと、柔らかな日差し。この瞬間を永遠に閉じ込めておきたいと思うほど、満ち足りた午後だった。


 翌日の夕方。


「ねえ、駅ビルのツリー、見に行かない?」


 彼女の提案で、僕たちは部屋を出た。いつもの電車に乗り、古都の玄関口へ向かう。


 駅ビルはクリスマスムード一色だった。少しリッチなディナーを楽しみ、ほろ酔い気分で大階段へ向かう。巨大なクリスマスツリーの前で、僕たちは足を止めた。


 寒がる彼女に、僕は着ていたグレーのパーカーを貸した。黒いジャケットの上に、僕のパーカーを羽織る彼女。その姿がたまらなく愛おしくて、彼女は人混みの中で僕にキスをした。冷たい空気の中で触れ合う唇の熱さ。世界中で僕たちだけが、本当の愛を知っているような気がした。


「……じゃあ、そろそろ帰ろっか」


 余韻に浸りながら、僕は言った。当然、彼女の部屋に一緒に帰るつもりだった。明日の朝、そこから大学へ行けばいい。


 僕たちは手を繋ぎ、駅の改札へと向かった。いつもの、西の山間部へ向かうホームへの入り口。夏のあの日、彼女が「来る?」と招き入れてくれた、幸福へのゲート。


 僕が改札を通ろうとした、その時だった。


 繋いでいた手が、動かなかった。振り返ると、彼女が立ち止まっていた。


「……美紅さん?」


 彼女は僕の手をゆっくりと離した。そして、羽織っていた僕のグレーのパーカーを脱ぎ、丁寧に畳み始めた。


「あれ、どうしたの? まだ寒いよ?」


「ううん。もういいの」


 彼女はパーカーを僕の胸に押し付けるようにして返した。そこには、彼女の体温と、フローラルの香りが色濃く残っていた。


 彼女は、緑色の瞳で僕をまっすぐに見つめた。その目は、さっきキスをした時の甘い瞳ではなかった。出会った頃の、あの射抜くような、何処か遠くを見ているような目だった。


「佑樹」


 彼女の声が、雑踏の音を切り裂いて届く。


「今日は、帰って」


 僕は言葉の意味が理解できず、ポカンとした。


「え? どういうこと? 明日早いとか?」


「違うの」


 彼女は首を横に振った。そして、静かに、けれどはっきりと言った。


「今日を、最後にしよう」


 ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。最後? 何が? 今日が? 僕たちが?


「……またまた。何言ってるのさ」


 僕は引きつった笑顔を作った。きっと、いつもの悪戯だ。「惚れさせて捨てる」と言ったあの時のように、僕を試しているんだ。ここで縋ったり、動揺したりしたら、格好悪い。


「冗談でしょ? さあ、行こうよ。電車来ちゃうよ」


 僕は再び彼女の手を取ろうとした。けれど、彼女はその手をそっと避けた。


「元気でね、佑樹」


 彼女はそれだけ言うと、踵を返した。振り返る彼女の顔はとても寂しそうだった。改札の向こうへ。彼女だけがゲートを通過していく。


「ちょ、美紅さん!」


 僕は叫んで、改札を越えようとした。物理的には、追いかけることなんて造作もないことだったはずだ。けれど、足が動かなかった。


 彼女の背中が、あまりにも遠く見えたのだ。彼女が纏う空気が、全身で「来るな」と拒絶していた。ここから先はあなたの居場所じゃないと、目に見えない分厚い壁で隔てられたような、圧倒的な圧力を感じて、僕は一歩も踏み出せなかった。


 彼女は一度も振り返らなかった。黒いジャケットの背中が、人混みの中に紛れ、やがて見えなくなった。


 手元には、返されたパーカーだけが残っていた。抱きしめると、彼女の匂いがした。ついさっきまで、あんなに幸せだったのに。どうして。なんで。


 僕は呆然と、彼女が消えた改札を見つめ続けることしかできなかった。

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