第1話:契約の予言

 あの日から遡ること7ヶ月。4月20日。季節は春。けれど、古都の春はまだ冬の名残を含んでいて、肌寒かったのを覚えている。


 僕たちの始まりは、街の中心を流れる川にかかる、古い橋のたもとだった。欄干に肘をついて川面を眺める女性の姿を見つけた時、僕は思わず足を止めて息を飲んだ。


 まだ当時にしては珍しく、アプリで知り合い、何通かのメールをやり取りしただけの相手。顔写真は交換していたけれど、実物は画素の粗い写メとは比べ物にならないほどのオーラを放っていた。


 アッシュブラウンに染められた、丁寧に巻かれた髪。ぱっつんに切り揃えられた前髪の下にある、切れ長の大きな目。彼女――美紅さんは、工学部に通う冴えない大学3回生の僕にとって、あまりにも「高嶺の花」だった。


「……あ、はじめまして。秋元です」


 恐る恐る声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。


「はじめまして、美紅です」


 その瞳を見た瞬間、僕は射抜かれた。緑色。日本人の黒い瞳ではない。透き通るような緑色のカラーコンタクトが、彼女のミステリアスな雰囲気を決定づけていた。


「ふふ、なんか緊張してる?」


 彼女が小さく笑うと、風に乗って甘いフローラルの香りが漂った。華やかで、けれどどこか落ち着く、大人の女性の匂い。その匂いを吸い込んだ瞬間、僕のDNAが「この人だ」と叫んだ気がした。


 僕たちは、繁華街の路地裏にあるレトロなカフェを目指して歩き出した。隣を歩く彼女が気になって仕方がない。横顔が綺麗だとか、姿勢がいいとか、そんなことばかり考えて、僕は何度も彼女の方を盗み見てしまった。


 視線を感じたのか、彼女が不意にこちらを向いた。


「めっちゃ見るじゃん」


「えっ!?」


 悪戯っぽく指摘され、僕は顔が熱くなるのを感じた。


「あ、いや、その……綺麗だなと思って……」


「ふふ、ありがと」


 彼女は余裕たっぷりに微笑んだ。その時すでに、主導権は完全に彼女の手にあったのだと思う。僕はただの手のひらの上の子犬だった。


***


 カフェは、鉄板に乗ったパンケーキが有名な店だった。カラフルでポップな内装で、僕一人なら絶対に入れないような場所だ。


「ここのパンケーキ、美味しいんだよ」


 向かい合わせに座った彼女は、ナイフとフォークを優雅に使ってパンケーキを切り分けた。僕はと言えば、緊張で味もわからなかった。彼女は僕と同い年だと言っていたけれど、その振る舞い、店員さんへの受け答え、そして僕を見る余裕のある眼差しは、どう見ても僕より精神年齢がいくつも上に見えた。


「佑樹くんは、大学で何してるの?」


「あ、えっと、工学部で……実験とか、レポートばっかりで……」


「へえ、理系なんだ。真面目そうだもんね」


 彼女は僕の「冴えない部分」を馬鹿にするどころか、「真面目」という長所として肯定してくれた。その包容力に、僕は少しずつ肩の力を抜くことができた。話せば話すほど、彼女の魅力に引き込まれていく。もっと知りたい。もっと一緒にいたい。気づけば、僕はパンケーキの甘さよりも、彼女の笑顔の甘さに酔っていた。


***


 店を出ると、日はすでに傾きかけていた。


「少し、歩こっか」


 彼女の提案で、僕たちは川沿いの河原へ降りた。等間隔にカップルが並んで座ることで有名な、あの河原だ。夕暮れの風は冷たかったが、隣を歩く彼女の存在が熱を帯びているせいで、寒さは感じなかった。


 歩きながら、僕は何度も彼女の手を見た。華奢な指先。繋ぎたい。でも、出会って数時間の僕が触れていいものだろうか。拒絶されたらどうしよう。そんな葛藤で、僕の視線は彼女の手と顔を行ったり来たりしていたのだろう。


 不意に、彼女が足を止めた。


「手、繋ぎたいの?」


「えっ」


 心臓が跳ね上がった。


「バレバレだよ」


 彼女はクスクスと笑うと、自分の方から僕の手を握ってきた。


「ほら」


「……!」


 柔らかくて、華奢な指。僕の無骨な指とは違う、壊れ物を扱うような感触。心臓が破裂しそうだった。女性と手を繋ぐこと自体が久しぶりだった僕にとって、それは劇薬にも等しい刺激だった。彼女は何も言わず、ただ前を向いて歩き出した。その横顔を見ていると、胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、もう抑えきれなかった。


 空が藍色に染まり、街灯が灯り始めた頃。僕たちは河原の一角、誰もいないスペースを見つけて腰を下ろした。対岸のビルの明かりが、黒い川面に揺れている。周りには、幸せそうなカップルたちのシルエットが点々と並んでいる。僕たちも、その中の一つになれるだろうか。なりたい。いや、ならなきゃいけない。


 僕は、繋いだままの彼女の手を、ギュッと握りしめた。


「美紅さん」


「ん?」


 彼女がこちらを向く。逆光で表情は見えないが、あの緑色の瞳だけが、街灯の光を吸い込んで妖しく光っていた。


「……好きです。僕と、付き合ってください」


 声が震えた。断られるかもしれない。こんな素敵な人が、僕なんかの相手をしてくれるわけがない。数秒の沈黙が、永遠のように長く感じられた。


 その時だった。


 彼女がおもむろに立ち上がったかと思うと、座っている僕の膝の上に、向かい合わせになるようにして跨ってきた。


「えっ、ちょ、美紅さん!?」


 僕は狼狽えた。ここは屋外だ。周りには人がいる。だが、彼女はそんなことなどお構いなしだった。僕の首に細い腕を回し、全身の体重を預けるようにして、ギュッと抱きついてきたのだ。


「……!」


 柔らかい胸の感触が、僕の胸板に押し付けられる。鼻先をくすぐるフローラルの香りが、脳の処理能力を奪っていく。彼女の体温が、服越しにじんわりと伝わってくる。温かい。いや、熱い。


 彼女の唇が、僕の耳元に触れた。吐息がかかるほどの距離。彼女は、悪戯っぽく、けれど低く、熱を帯びた声で、呪文のように囁いた。


「いいよ。……でもね、佑樹」


 彼女の腕に力がこもる。逃がさない、とでも言うように。


「もし君が浮気したら、私なしじゃ生きられないくらい、惚れさせて、捨てるから」


 ゾクリとした。背筋に冷たい電流が走り、同時に下腹部が熱くなるような、奇妙な感覚。それは甘い愛の言葉というより、逃れられない「契約」の宣告だった。


 普通なら恐怖を感じるべき言葉なのかもしれない。けれど、二十一歳の世間知らずな僕は、その言葉に隠された深い情念と、僕という存在をそこまで強く求めてくれる独占欲に、どうしようもなく興奮していた。


「……分かった。浮気なんて、絶対にしない」


 僕は震える声で答え、彼女の背中に腕を回して抱きしめ返した。彼女は「ふふ」と満足そうに笑い、僕の首筋に顔を埋めた。


 これが、僕たちの始まりだった。いや、当時の僕はそれを「運命の恋」と呼んで疑わなかったけれど。いま思えば、あの瞬間、僕は彼女という飼い主に首輪をつけられ、そのリードを喜んで差し出したのだ。


 川のせせらぎと、遠くの車の走行音。そして腕の中にある彼女の体温。世界が、彼女を中心に回り始めた夜だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る