宝華島特別高専パンフレット制作記 ──泣き虫校長の一週間戦争──
ネコ屋ネコ太郎
第1話 校長なのに知らない事
午後の日差しは、やわらかくて眠気を誘う。
窓際のソファから、ぼんやりとグラウンドを眺める。
今日も学校は平和だ。
野球部のピッチャーが、物理法則をねじ曲げたみたいな軌道のボールを投げ、
サッカー部のシュートが校舎の外壁に直撃して、ぱき、と小さなヒビを入れる。
……こんな光景を見て「平和だ」なんて思えるくらいには、ここでの生活に慣れてきてしまった。
不本意だけど。
「……また、壁の補修費の書類、回ってくるかな」
思わず仕事の愚痴が口から漏れる。
誰もいない私の執務室に、その声は虚しく響いた。
私の仕事は、新卒二年目の教師には重すぎる。
いや、この特高の校長なんて、誰がやっても重すぎるに決まっている。
そうやって、愚痴とも諦めともつかないことを頭の中でこね回していたとき、
机の上の端末が、ちりん、と軽い音を立てた。
新着メールが一通。
《【重要】【至急】来年度学校案内パンフレット制作委員会 会議について》
嫌な予感しかしない件名だ。
タップして本文を開く。
『本日十六時より、来年度学校案内パンフレット制作委員会の会議を開催します。
会場:生徒会棟二階 会議室3
欠席・遅刻のないよう、よろしくお願いします』
簡潔で、逃げ道のない文章。
時計を見ると、十五時四十五分。
走れば、ぎりぎり間に合う時間。
「……よし」
考えるより先に、私は立ち上がっていた。
執務机に積まれた書類の山を一瞥して、ため息をひとつ。
「私、校長なのに……なんで生徒に呼び出されてるんだろう」
誰にともなくつぶやいて、私は執務室を飛び出した。
◇
生徒会棟の二階にある会議室3に着いたのは、会議開始一分前だった。
全力疾走したせいで、心臓がばくばくいっている。
「し、進藤です。遅れてごめんなさ――」
勢いよくドアを開けて、言葉が途中で止まった。
長机をコの字に並べた会議室には、すでに全員が席に着いていた。
外務委員会、宝華祭実行委員会、放送委員会、新聞部、写真部、報道研究会、式典委員会……
見覚えのある顔ぶれがずらりとそろって、こちらを一斉に振り向く。
私が、一番最後。
空いている席はひとつだけ。
議長席と思われる位置の、右隣。
生徒会会計――服部蘭華さんの横。
(……一応、校長の威厳は保たれてる席、なのかな、これ)
「弥生ちゃん、おつかれ〜」
蘭華さんが、にっこり笑いながら立ち上がり、ペットボトルの水を差し出してくれた。
その笑顔がまぶしくて、思わず水を一気に飲み干す。
「ぷは……ありがとう。……っていうか!」
息を整える前に、言いたいことが口から飛び出した。
「なんで、昨日一緒にお茶してたときに、今日の会議のこと、言ってくれなかったの!」
ここは、大人として、校長として、きっちり抗議しておくべきところだと思う。
蘭華さんは、あははと楽しそうに笑ってから、悪びれもせずに言った。
「だって、ケーキ食べてる弥生ちゃん可愛すぎて、見惚れてたから」
「は?」
意味が理解できなくて固まっていると、
彼女はスマホを取り出して、さっと画面を操作する。
「ほらほら、みんな見て。昨日の新作ケーキと弥生ちゃん」
「ちょっ――!」
止める間もなく、テーブルの上をスマホがぐるぐる回されていく。
画面には、昨日の放課後、校内カフェで撮られたらしい写真が映っていた。
皿の上の、宝華島産の柑橘をふんだんに使ったタルト。
そして、その手前で満面の笑みを浮かべている、私。
――完全に、気を抜ききった顔だ。
「これは仕方ない」
「これは推せる」
「この笑顔は守りたい」
「弥生ちゃん、完全にスイーツに釣られてる顔ですね……」
「かわいい……」
好き放題言われている。
いつのまにか、その写真はこの会議メンバーのグループチャットに共有されたらしく、
数人の端末が、ぴこぴこと光った。
「ちょ、ちょっと! 削除とか……!」
「やだなあ、校長。これはもう、特高の貴重な文化遺産だから」
「文化遺産じゃないです!」
大人の威厳は、完全に消し飛んでいる。
……そもそも、そんなもの、最初から私にはなかったのかもしれない。
服部さんも言っていたように、私は生徒たちから「進藤先生」ではなく、
だいたい「弥生ちゃん」と呼ばれている。
少し遠慮がちの子でも、「弥生ちゃん先生」だ。
おかげで生徒にケーキを奢ってもらえたりするから、一概に悪いことばかりとも言えないけれど、
大人や校長としての威厳なんて、かけらもないことは確かだ。
「はいはい、そのへんで。弥生ちゃんも来たし、定刻だから会議始めるよー」
ぱん、と蘭華さんが手を叩いた瞬間、
さっきまで好き勝手言っていた会議室の空気が、すっと引き締まった。
さすが、生徒会会計。
校長の私より、ずっと威厳がある。
……まだ一年生なのに。
「じゃ、まずは状況の確認からね」
彼女のその一言で、全員が一斉に手元の資料を開いた。
ぱらぱらと紙がめくられる音が、会議室に広がる。
私も慌てて、自分の席の前に置かれていたファイルを開いた。
「パンフレット制作プロジェクト・進行管理」と書かれた表紙。
(進行管理……? してた、の……? 誰が……?)
ページをめくる前から、不安しかない。
「まずは〆切ね」
ホワイトボードの前に立った蘭華さんが、さらさらとペンを走らせる。
『〆切:明後日』
赤い文字が、あっさりと書かれた。
「えっと、これは印刷所さんに無理言って、延ばしてもらえるだけ延ばしてもらった、完全に最終ラインです」
「…………ん?」
耳が、現実を拒否した。
「ちょ、ちょっと、待って。今……なんて?」
「〆切は明後日」
蘭華さんは、笑顔を崩さずに繰り返す。
「明後日、データを入稿。そこから一週間で印刷・製本してもらって、来週末には全国に発送。いつものスケジュールです」
「い、いつもの……?」
手元のファイルを広げると、たしかに今年度の全体スケジュール表に、
「パンフ発送:十一月下旬」という文字が印刷されていた。
その前の欄――パンフ制作、と書かれるべきスペースは、きれいに空白だ。
(空白って、こんなに怖いんだ……)
「ちょっと、今まで何やってたの!」
思わず、校長らしさも大人らしさもどこかへ吹き飛んだ声が出た。
資料にも「〆切:明後日(※これ以上の延期は不可)」としっかり書いてあって、目まで疑う。
「仕方ないっしょ」
蘭華さんが、けろっとした顔で言う。
「例年はね、夏休み明けから動き始めるんだけど、今年は“あの件”があったでしょ?」
その言葉に、全員がうんうんとうなずく。
九月には“あの件”があって、十月は宝華祭でずっとバタバタしていた。
――今年は、そういう年だ。
「わたしら、まともに動けなかったじゃん」
「……それは、まあ、そうだけど」
「更に、十月は宝華祭っしょ」
それには、私も深くうなずかざるを得なかった。
宝華祭――十月まるごとを使って行われる、特高最大の祭り。
体育祭と学園祭と研究発表会が同時進行で行われ、
最後の週には島の古い祭礼まで加わる、混沌とした一ヶ月。
「あの祭り期間中に、祭り以外のことやるのは、不可能でしょ」
「……それは、そうだね」
あの十月に、パンフレット制作なんて、確かに考えられない。
実際、私も考えなかった。
「だから、今なんだよ、このタイミング」
蘭華さんが、ホワイトボードの「明後日」をぱん、と指さす。
「つまり、ガチの最終ライン。ここを逃したら、来年度の特高パンフは存在しません。
――なので、ここから三日間、気合いで行きまーす」
「……三日?」
思わず聞き返してしまう。
「今日・明日・明後日。三日あれば、余裕っしょ」
「余裕っしょ、じゃないよね!?」
机をばん、と叩きそうになる手を、ぎりぎりでこらえる。
(なんで全員自信満々なの? 三日だよ? 三日!? わかってる?)
心の中で叫んでも、誰にも届かない。
会議室を見回すと、生徒たちは「まあ、いけるでしょ」という顔でうなずき合っている。
理解できない。
でも、彼女たちが本気でそう思っていることだけはわかる。
「無理だよ……」
気づいたら、その言葉が、口からこぼれていた。
会議室の空気が、一瞬止まる。
全員の視線が、私に向いた。
「……ご、ごめん。ダメだよね、こういうの。やる前から“無理”とか言っちゃ」
慌てて取り繕う。
でも、顔が熱くなっていくのが自分でもわかる。
「私が一番、頑張らないといけないのに……」
みんなの顔を見る。
どの顔も、真面目で、頼もしそうで、そして少しだけ心配そうだ。
視界が、じんわりとにじむ。
いつもそうだ。
私はすぐ弱気になって、泣きそうになって、みんなに迷惑をかけて――
「みんな!」
その空気を切り裂くみたいに、服部さんが立ち上がった。
「弥生ちゃんに恥かかせる訳にはいかないからね!」
「え?」
「普通のパンフじゃない。――最高のパンフ、作るよ!」
にっと笑って、ホワイトボードに新しい一文を書き足す。
『目標:史上最高の特高パンフ』
「おー!」
どこからともなく、歓声が上がる。
「やろやろ。どうせやるなら、最高に面白くて、最高に“特高っぽい”やつにしよ」
「保護者向けだから“表向きは”ちゃんとお上品にね」
「そうそう、“公式には書いてないこと”の扱いは慎重に」
「写真は任せて。寮の現実は、ちゃんと“夢を壊さない範囲で”盛っとくから」
「キャッチコピー、山ほど持ってきてるから、好きなの選んでね」
さっきまで静かだった会議室が、一気に熱を帯びていく。
「はい、じゃあ今日は顔合わせと〆切確認でおしまい!
具体的な構成案と原稿案は、明日の十六時の会議に持ち寄りってことで」
「了解」
「余裕っすね」
「徹夜コースかなー」
わいわいと話しながら、椅子から立ち上がっていく生徒たち。
「最後に、一本締めしとこっか」
「なにそれ」
「ノリだよ、ノリ」
よくわからない流れで、全員がまた席に戻る。
服部さんが、こちらにいたずらっぽい視線を向けた。
「それじゃあ――せーの!」
「「「弥・生・ちゃーん!!」」」
なぜか、私の名前で締められた。
会議室に、拍手と笑い声が弾ける。
「……え、今の何の儀式?」
「決起集会?」
「推しへの忠誠表明?」
「それっぽい」
好き放題言って、また笑う。
こうして、パンフレット制作委員会の初会議は終了した。
本日の進捗――ゼロ。
明日の会議は、今日と同じ十六時。
謎の熱気だけが、会議室に濃く残っていた。
会議室を出て、生徒会棟の廊下を歩きながら、私は大きく息を吐いた。
「……本当に、三日で、終わるのかな」
不安は、まだ消えない。
でも、さっきの生徒たちの顔を思い出すと、
胸の奥が、少しだけあたたかくなる。
(泣いてる場合じゃない、よね)
自分に言い聞かせるように、小さくつぶやいた。
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