第3話 虚構の隣人 前編
【SCP-NUK-03 暫定調査ファイル】
アイテム #: SCP-NUK-03 (Provisional)
オブジェクトクラス: Euclid
特別収容プロトコル:
現在の汚染区域である集合住宅「サニーサイド・ハイツ」を中心とした半径500mを封鎖。
カバーストーリー「大規模ガス漏れおよび地盤沈下調査」を適用し、住民と外部の物理的接触を遮断する。
現地エージェントは、対象(通称:佐藤氏)との会話や認識を行ってはならない。
説明
SCP-NUK-03は、特定の空間に発生した「集団幻覚」に類似した現象である。
特筆すべきは、その幻覚が物理的な影響力を行使しているかのように観測される点、
および住民間の「好意・親愛の情」を媒介として認識が感染・共有されている点である。
日常に潜む「いないはずの誰か」
「おい、見ろ。
まただ。
……本当に、俺たちには見えていないだけなんじゃないか?」
隣で双眼鏡を覗く機動部隊員の声には、隠しきれない怯えが混じっていた。
(無理もない。
人間の脳は、集団が『そこにいる』と確信しているものを否定し続けることにストレスを感じるようにできている。
だが、計器は嘘をつかない)
私は、監視モニターに映るサーモグラフィー映像を指差した。
「熱源反応なし。
質量センサーも反応なし。
そこにいるのは空気と埃だけだ。
だが……」
モニターの向こう、郊外の平和な団地「サニーサイド・ハイツ」の203号室前。
そこには、買い物袋を提げた主婦が、誰もいない虚空に向かって、満面の笑みで話しかけている光景があった。
「あら、佐藤さん!
おはようございます。
昨日は息子が遊んでもらったみたいで、すみませんねぇ」
主婦は、見えない誰かから返答を受け取ったかのように頷き、さらに「まあ、お土産まで?」と言って、
何もない空間から何かを受け取る仕草をした。
彼女の手は、空気を掴んでいるだけだ。
しかし、その腕の筋肉は、確かにある程度の重量物を支えるような緊張を示している。
(パントマイムじゃない。
彼女の脳内では、そこに『佐藤さん』という物質が物理的に存在し、質量を持っている。
世界そのものが騙されているのか、彼女たちの脳が世界を書き換えているのか)
「203号室は、過去10年間空室だ。
管理会社の記録も、電気ガスの使用量もゼロ。
物理的には誰も住んでいない」
私は記録端末に打ち込みながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
前回、我々が対峙したのは、「愛の深さに応じて存在を抹消する」異常だった。
しかし、ここで起きているのは真逆だ。
住民たちの「隣人への好意」という集合意識が、「存在しないはずの人間」を、この現実に強引に縫い付けている。
(『愛は存在の証明』だと?
笑わせるな。
これでは『愛は妄想の具現化』だ。
だが待てよ……)
ふと、私の脳裏に、かつて消えてしまった私の家族のことがよぎった。
もし、「愛が存在を作り出す」ことができるのなら、私の家族が消えたのは、誰かの異常な能力のせいではなく、
単に世界中から「愛(観測)」が途絶えたからではないのか?
この「虚構の創造」という現象は、私の家族が受けた「存在の抹消」という現象の、
鏡写しの裏側なのかもしれない。
「調査に入る。
住民への接触には細心の注意を払え。
彼らにとって、佐藤さんは実在する親切な隣人だ。
それを否定することは、彼らの世界を否定することになる」
私は団地の敷地内へと足を踏み入れた。
すれ違う住民たちが、口々に「佐藤さん」の噂をしている。
「佐藤さん、いい人よね」
「この前、庭の草むしりを手伝ってくれたの」
住民の一人に、証拠写真を見せてもらった時、私は確信した。
スマートフォンの画面。
集合写真の中央、主婦の隣には、誰も写っていなかった。
ただ、空間が歪んだような、奇妙な光の屈折だけが、人の形をしてそこに佇んでいた。
(これは幽霊じゃない。
『不在』という概念そのものが、人々の願いによって『存在』の席に座らされているんだ)
私は、この異常が単なる集団ヒステリーではないことを悟った。
これは、SCP-NUK-02(指輪)から漏れ出した異常性が、個人の枠を超え、
社会というネットワークに感染し始めた兆候だ。
そして、その中心にある「愛による現実改変」のメカニズムこそが、私が追い求めている真実への鍵だと直感した。
【緊急インシデント記録:収容違反】
日時: 20██/██/██ 14:30
場所: サイト-███ 作戦司令室および封鎖区域境界
事象: 物理的封鎖ラインの突破(非物理的手段による)
報告
封鎖対象である「サニーサイド・ハイツ」からの物理的な脱出者は皆無。
しかし、封鎖境界線の外側に位置する都市部にて、SCP-NUK-03(通称:佐藤氏)と同一の人物特徴、
および同一の好意的な認識を持つ事例が同時多発的に発生。
感染経路は「音声通話」および「SNS上のテキスト」による、対象への心配・好意の共有と断定される。
(異常性の拡大とKeter昇格):パンデミック・ラブ
「主任!
第3セクター、第4セクターでも『佐藤さん』の目撃情報……いえ、交流情報が急増しています!」
司令室にオペレーターの悲鳴に近い報告が響き渡る。
メインモニターに映し出された地図は、封鎖された団地を中心として、まるでインクを落としたように赤い警告ランプが広がり始めていた。
(あり得ない。
団地は物理的に完全に遮断した。
通信妨害も行っているはずだ。
どうやって異常性が漏れた?)
私は通信ログの解析画面を睨みつけた。
そこには、封鎖直前に住民たちが発信した、無数のメッセージや通話記録が残されていた。
『隣の佐藤さんが心配なの』
『あの人、本当にいい人だから、何かあったら助けてあげて』
住民たちの善意。
隣人を想う純粋な優しさ。
それが、ウイルスのキャリアだった。
「物理的な移動じゃない……。
意識のネットワークだ」
私は戦慄した。
SCP-NUK-02の異常性は、指輪という物質から解き放たれ、「誰かを想う」という情報伝達そのものに寄生したのだ。
SNSで「佐藤さん」の話が拡散されるたび、電話で「いい人だ」と語られるたび、その受信者の住むアパートの空室に、あるいは一軒家の隣家に、「親切な佐藤さん」が実体化する。
「東京、大阪、ニューヨーク……。
拡散速度が計算できません!
これは指数関数的増大です!」
部下の絶望的な声がかき消されるように、サイト管理官が静かに、しかし重々しく口を開いた。
「状況は明白だ。
我々の物理的な壁は、人の心までは遮断できなかった」
管理官は、真っ赤に染まっていく世界地図を指し示した。
「対象は物理的実体を持たず、人類が持つ『他者への好意』を感染経路として無限増殖している。
もはや一地域のローカルな異常ではない」
部屋の空気が凍りつく。
全員が、次に発せられる言葉の意味を理解していた。
「総員に通達。
SCP-NUK-03を、EuclidからKeterクラスへ再分類する」
Keter。
それは、収容が極めて困難、あるいは不可能であり、人類存亡の危機に直結するレベルの脅威を意味する。
「直ちに情報遮断プロトコル・オメガを発動せよ。
関連するキーワードを含む全通信を遮断、必要であればインターネット基盤そのものを一時凍結する」
管理官の冷酷な判断に、私は拳を握りしめた。
(愛をウイルス扱いだと?
人間から「誰かを心配する心」を奪わねば収容できないなら、財団は人類を守るために、人類の心を殺すつもりか)
(だが、否定できない。
今この瞬間も、誰かの「優しさ」が、世界の実在性を食い破って虚構を産み落としているのだから)
私は、モニターの中で増殖し続ける「愛される虚構」を見つめながら、この異常性が目指す終着点が、
単なる幻覚の共有などではないことを直感していた。
これは、世界の書き換えだ。
愛されたものが真実になり、愛されないものが虚偽になる。
そんなデタラメな法則が、物理法則を乗っ取ろうとしている。
「……元を断つしかない」
私は喧騒の中で、独りごちた。
この異常な連鎖の根源(オリジナル)。
初期研究において、最初にこの「愛による創造」を夢見た誰かの記録を。
私は混乱に乗じ、自身のアクセス権限を越えた深部アーカイブへの侵入を決意した。
組織がひた隠しにする真実を暴くために。
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