サイフォン

みすたぁ・ゆー

一杯目:憧れのお兄ちゃん

 

 私はコーヒーが嫌いだ。なぜならとっても苦いから……。



 今年の冬は訪れが遅かった分、一気に寒くなったような気がする。


 今朝起きた時なんか、部屋の中でも息が白くなるくらいだった。もっとも、うちは築三十年以上のオンボロ都営団地だから、窓から隙間風が否応なしに入ってくるのでそれも仕方ない。カーテンを閉めれば多少は防げるけど、あくまでマシといった程度だ。


 今もまた吹いてきた強い北風によって窓がガタガタと音を立て、部屋が少し寒くなった。その窓から外へ目を向けると、夕陽の茜色に染まった街路樹が風によって大きく揺れているのが見える。


 ――そういえば、いつだったか北斗ほくと兄ちゃんが『なぜ部屋が冷えてしまうのか?』を教えてくれた。


 自然界において熱は高温側から低温側へ移動し、また完全に断熱することは不可能だから部屋より外の気温が低い限り絶対に冷えてしまうんだよ、と。


 その時、見たこともない文字や記号だらけの式を交えて説明してくれたんだけど、それは高校や大学レベルの内容らしいので中学生の私には当然分かるはずもない。


 でももちろん北斗ほくと兄ちゃんは内容をかみ砕いて、分かりやすく説明してくれた。




「例えば、水は高い所から低い所へ流れるでしょ? 熱も同じだと思えばいいんだよ。熱い方から冷たい方へ流れ続ける。そして水が低い方から高い方へ流れられないように、熱も冷たい方から熱い方へは流れられない。そういう元の状態に戻せない変化を不可逆ふかぎゃく変化というんだ」


不可逆ふかぎゃく変化……か……」


「うん、そうだよ。自然界の現象は全て不可逆ふかぎゃく変化なんだ。一方、断熱するっていうのは流れる水を手でき止めるようなもの。どうしても指の間に隙間があって完全に塞ぐことはできないでしょ? 熱もそれと同じで、どんな道具を使っても熱の流失を防ぐことはできない。不可逆ふかぎゃく変化と完全断熱の不可能。このふたつの理由で、暖かい部屋はどうしても冷えちゃうってわけさ」




 その話を聞いて、私はなんとなく理解することができた。


 それは概念的な説明だったのかもしれないけど、式だけを使って示されるよりはずっと分かりやすい。やっぱり北斗ほくと兄ちゃんって勉強の教え方が上手いんだと思う。だからこそ、私は中学校で上位の成績をキープできているんだろうし。


 ちなみに北斗ほくと兄ちゃんと私はお互いにひとりっ子で、実の兄妹というわけじゃない。


 北斗ほくと兄ちゃんはご両親と共にうちの上の階に住んでいて、今は国立大学工学部の二年生。私よりも七歳年上で、来月には成人式を迎える予定だ。だから単に年上の男性という意味合いで『お兄ちゃん』と呼んでいるに過ぎないのだ。


 私は小学生の頃から週一回、北斗ほくと兄ちゃんから勉強を教わっている。一応、形としては家庭教師ということになっているんだけど、先生と生徒というような意識はあまりない。


 普段からお互いに家同士を気軽に行き来しているし、一緒に遊びに出かけることだってよくあるから、それこそ実のお兄ちゃんに勉強を見てもらっているという感覚の方が近い。



 ――そして、私は北斗ほくと兄ちゃんが大好きだ。できれば恋人同士になりたい。


 すごく優しくて格好良くて頼りになって、ずっと昔からあこがれの存在。でも近すぎる存在だからこそ、今の関係が壊れてしまうのが怖くてあと一歩が踏み出せないままでいた。


 あぁ、北斗ほくと兄ちゃんは私のこと、どう思っているんだろう? 昔から世話を焼いている、単なる近所の女の子ぐらいの認識なんだろうなぁ……。


 私は落胆して、深い溜息ためいきをついた。するとそれとほぼ同時に玄関のドアが開く音がする。

 


(つづく……)

 

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