ドール・リベンジャー

椅子に座り、目の前のテーブルには豪勢な食事が並んでいる。焼き立てのパン、パイに包まれた肉、魚のムニエル、品目の多いサラダ、どれもこれも涎が垂れそうなほど魅力的だ。ナイフとフォークを握らされ、この食卓の主が向かいの椅子につくのを待つ。彼女は視界の端で絵馬を暗闇の中に沈めている。大橋さんは既に暗闇に沈んでしまった。僕にこの空間での自由は与えられていない。辛うじて視線を動かすことは出来るが、眠ったまま動かない絵馬を助け出すことは出来ない。絵馬の身体がどんどん沈んでいく。少しの水の音が聞こえて、絵馬は暗い闇の底に沈んでいった。彼女は振り向いて穏やかな微笑みを浮かべる。別に目のハイライトが消えたりはしていない。きわめて平常な佇まいで、この極めて異常な空間を作り上げている。

「ラヴ。」

これは夢の世界。目が覚めれば絵馬も大橋さんも近くで眠っているだろう。でもこの夢が続くのであれば僕の精神は破綻していくだろう。ラヴとは早めに交渉しておく必要がある。

「ご主人様。お食事にしましょう。わたくし、お料理を覚えました。お洗濯やお掃除、それに、ご主人様のお世話であればなんでもできますから、何でもおっしゃってください。」

ラヴがグラスに水を注ぐ。僕の知識にはないものがテーブルに並んでいる。それに、今のラヴの服装は児島姉から送られてきた画像と同じものだ。このメニューはそこで得たものだろうか。

「君が僕の頭から旅立って、順調に成長している様で嬉しいよ。」

褒められたラヴは口元に手を当て、少し肩を震わせる。

「ご主人様?わたくしは体こそあなたの側から離れましたけども、この魂はあなたの側から離れたことはございません。ずっとあなたのお側におりましたよ?」

ラヴがエプロンのポケットから2枚の写真を取り出す。そこには瀬戸と内海さんが映っていた。確かに、二人はラヴを預けてから出会った人たちだが…、僕はそもそもの誤解をしているのかもしれない。ラヴがそばにいるからラヴが夢に現れる。そうではないのかもしれない。

「ですから、少々この胸が痛みました…、わたくしがいるのにあなたは他の女とうつつを抜かしてしまう。あろうことか私をご主人様のお側から遠ざけてしまうなどと…、」

ラヴがテーブルに握ったこぶしを置き、震わせる。綺麗な瞳から流れた雫が雪のように白い肌に線を引く。その涙を拭おうと手を動かそうとする。固まっているはずの腕が動いた。腰を浮かせようとするがこれは許可されていないらしい。

「ラヴ…、」

僕の意志以外の力も加わって、ラヴの方に僕の手のひらが向かう。ラヴも顔を近づけて、頬を触れ合わせる。

「…あなたに触れられたかった。たった数日離れただけでもこの身体を抱いてもらえない日を過ごすだけで嫉妬に狂いそうでした。ねぇ?ご主人様はまだご経験はされていませんよね?わたくし、理解しております。わたくしの身体はそういう目的のために作られたものだと。」

ラヴが僕の背後に回って肩にそっと手が触れる。僕の背中に冷や汗が流れた。まずい…、この状況は、僕が性的に食われてしまうのではないか?体を動かそうにも動かない…、ラヴの手が、僕のシャツのボタンを一つ、二つ、と開いて胸元に手を入れられる。

「うがぁぁぁぁっ」

突然、部屋の輪郭が粉々に砕ける。この声は、大橋さんか?体が揺れている感覚がする。体が自由になる。振り返るとラヴが困ったような笑みを見せる。綺麗にお辞儀を見せて手を振ってくれる。だんだんと距離が開く。僕はラヴの方へ手を伸ばす。

「また、次の夜に会おう。」

ラヴが驚いたような表情をして、口に手を当て微笑む。世界が白に包まれて、ラヴの姿がぼやけてくる。


「お、起きたな。」

目を覚ますと大橋さんの顔面が目の前にあった。

「うわ…」

「なんだよ、うわって。失礼な奴だな。」

タンクトップ姿の大橋さんが少し不満げな顔をして立ち上がる。僕も体を起こして周囲を見ると、机の上にハンバーガーチェーンの紙袋があった。買ってきたのだろうか。あ、絵馬は?どこに行ったのだろう。キッチンの方から音がする。なにかやっているのだろう。別に好きにしてくれて構わないけど…、

「ミキサーあったからフルーツジュースだってさ。」

僕は頭を搔き、記憶をたどってミキサーの購入履歴を探る。

「そうなんだ。」

ごー、という音がした。初めて聞く音だ。買ったはいいものの使わなかったのか…。

「起きたら、朝から買い出しに行こうって誘われてさー、」

「そうなんだ。」

時計を見ると昼前の時刻を指している。まぁ、昨日…今日か、遅かったからなぁ。昨日の目覚めとは大違いだ。絵馬がミキサーと紙コップを持ってリビングにやって来る。テーブルに持ち物を置いて伸ばした僕の太ももにのしかかる。僕の顔を両手で挟んで口を近づける。軽い目覚めの口づけを交わした後、絵馬がニヤッと笑って、

「浮気は楽しかった?」

僕は少しげんなりして、

「…今は疲れる…。」

絵馬は声を出して笑って、大橋さんが何のことかわからず混乱している。僕はため息を吐いて絵馬の身体を抱きしめる。抱きしめた絵馬の感触が、まぎれもなく僕の一番大切なものだと、改めて確認する。


「ふーん。で、絵筆はドールマニアで、持っている人形が呪いの人形だと。」

大橋さんが魚のフライを挟んだバーガーを頬張りながら、ラヴについてのずれた理解をしている。絵馬は分厚いパティが二枚挟まった重厚感のあるハンバーガーをむしゃむしゃと貪っている。あまりそういうものを食べるイメージが無いので、少し戸惑っている。僕は絵馬が作ったフルーツジュースを味わっている。果肉が程よく残って楽しい。

「毎晩夢に出てきて絵筆の事を襲っているの。」

「別に毎晩ってわけじゃないけど…。」

「でも今日はすごくうなされてたぞ。」

「その節はお世話になりました。」

大橋さんが起こしてくれなかったら夢の中で童貞喪失もあり得た話だ。いや?夢の中での出来事は現実ではノーカンでは?うーん、それを絵馬が許してくれるかは…、

「お祓い行けば?」

「そのうち気が変わって児島さん所に居付いてくれるといいんだけど…、」

先ほどスマホを確認したら、もにかさんの朝食の準備を眺めている画像が送られてきた。随分可愛がられている様で、昨日のメイド服とは違う緩いポップなスウェット姿になっていた。

「めいこちゃん達に憑りつくぐらいなら、私が討伐してやるわ。」

「討伐って…、」

実際の所、夜は僕の所にやってきてるみたいだから、彼女たちには何もないだろうけど…。結局は僕が周囲との関係性を確立していくことでしか問題は解決しないかもしれない。

「預けてるって言うのは、いつかはここに帰ってくるんだろ?」

「児島さんたちが返したくなったら返してもいいとは言っているので、完全にあっち主導ですね。僕が言っても帰っては来ると思いますけど、結構かわいがってくれてるみたいなので、そっちの方が幸せなのかなって」

「でも、毎晩絵筆の夢に出てくるんだろ?」

「可愛げがあるでしょう?」

「まぁな。」

絵馬が最後の一口を頬張り、指についたソースを舐めていく。

「大橋も知ってると思うけど、絵筆の恋人は私だからね。」

力強い宣言に頼もしさを感じる。僕もここまでまっすぐでいられるなら楽なんだろうけど。

「ああ。私は愛人だろ?」

大橋さんに肩を組まれる。絵馬とは違った柔らかさに少し顔が熱くなる。

「そんな制度はねぇっ。」

絵馬が僕と大橋さんを引きはがす。二人が鍔迫り合いになりながら、愛人の是非について激論を交わしている。そこに僕の意志は存在しない。もとから僕に意志なんて存在してなかったのかもしれないけど…、あのとき、絵馬に電話をした時、自分の中に意志の炎が昂った気がしたけど、どこからともなく拭いた風にかき消されてしまったらしい。それでも、残った煤の中に、絵馬への想いが残っているのは、ある種の僕の誠実さなのか。


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