伊栖摩市波須田のヤマイという風習について
佐々宝砂
第1話 沙綾の手記その1
―――この手記は望月沙綾氏が私に託したスマートフォンに記録されていたものである。―――
ヤマイという風習について詳しく知っている人はいないだろうか。私の祖母はヤマイについて知りすぎたのかもしれない。もしかしたら、私も。
私が東京暮らしを二年間で打ち切って帰郷したのは、両親が熟年離婚したからだった。私の父は家事が一切できない人なので、ほったらかしにしておいたら私の実家は見るも無残なことになってしまうだろう。母は一人でやってゆける人だから心配は要らない。むしろ父の面倒を見てくれと母に頼まれ、帰郷のいい大義名分になった。そのとき母が「あんたももう二十二歳なんだから山にとられたりしないでしょ」と言った意味はよくわからない。
私の故郷はx県
バスの車窓から見る波須田の風景は、記憶にあるものとほとんど変わらなかった。萌え始めた草と木々のみどり。私は波須田山を眺めやり、一度も参加できなかったヤマイのことを思い出した。母があんな田舎臭くて危ない行事に出ちゃダメだというので参加しなかったのだが、特に危なかったという話は聞かない。母は何を根拠にヤマイは危ないと言ったのだろう。ヤマイは名前こそ思わせぶりだが、地元の中高生が男女に分かれ波須田山で二泊三日する行事に過ぎない。ヤマイに参加した女子は、何か秘密を共有しているような、でも楽しげな雰囲気でヤマイのことを話していたものだ。もっとも男子の方はそれほど楽しそうではなく表情が暗かった。そしてなぜかしらヤマイのあとは男子がやけに優しくなるので、クラスにカップルが増殖した。波須田山はあのころと変わらず美しいが、ヤマイが行われる場所である波須田山を見るたび私は複雑な心境になる。波須田山では何が行われたというのだろう。
バスを降りると、どこからか何かを焼くような臭いが漂ってきた。木や草を焼く臭いではない。古い毛皮を焼くような、どこか生臭く不穏な臭いだ。田舎だから、いまだに家の庭でゴミを焼く人がいるのだろう。ダイオキシンが出るからやめておいたほうがいいのにと思いながら臭いの元をたどると、私の家だった。家の庭で父が何か燃やしていた。
「ただいま! お父さん、何を焼いてるの?」
「物置から出てきたばあさんのガラクタをな」
「ガラクタって、焼いちゃっていいものなの?」
「昔の学校の資料とかだから要らんだろ」
「ちょっと見せてよ」
父が炎に放り込もうとしていた紙を奪い取って読むと、それは二十年以上前の波須田中学修学旅行のお知らせだった。祖母は波須田中学の教師だったから、こうした書類がまだたくさん残っているのかもしれない。確かにこれは要らないかもしれないが、資源ゴミに出すべきだと思う。父は本当に家事ができない人なので、おそらくゴミの出し方もわからないのだ。
「お父さん、こういうのは資源ゴミだから焼いちゃダメ。物置は私が片付けるからもう火を消しましょう」
そう言いながら修学旅行のお知らせを裏返してみると、「ヤマイから戻らなかった聡子ちゃんも修学旅行には行きたかっただろうに」と祖母の字で書いてあった。いったいこれはどういう意味だろうか。私は父に紙をみせながら尋ねた。
「お父さん、この聡子ちゃんって知ってる?」
「たぶんおれのいとこだな、中学三年のとき戻らん子になったんだ」
「行方不明になったってこと? 戻らん子って何よ。変な言い回し。聡子ちゃん可哀想」
「ヤマイモリではそういうんだよ。女の子はいつ戻らん子になるかわからんから大事にしろと。詳しいことは話しちゃならんことになってるからあんまり言えんわ」
「ともかく、火は消しましょう。変な臭いだから近所迷惑になっちゃう」
火に水をかけたら、獣の頭蓋骨と何本かの骨が焼け残っているのが見えた。波須田生まれは獣の頭蓋骨くらいではびっくりしない。山で遊んでいれば時々見かけるものだ。でもこの頭蓋骨は猪でも鹿でもない。犬のようだが牙が大きく鋭く、肉食獣のものに見える。この牙は波須田山神社にあったお犬様の剥製の牙に似てるけど、まさか。あの剥製は非常に貴重なものだと聞いていたが。
「お父さん、この骨は何」
「犬の剥製があったんだよ。臭いし汚いし全然要らない」
「うちで要らないのは認めるけど、欲しい人もいそうよね」
父が焼こうとしていたものが入った箱を持って家に入る。母が出ていってから一ヶ月も経っていないからまだゴミ屋敷にはなっていないが、廊下には埃がたまり始めていた。台所はもっとひどいだろう。
私は居間に行き箱の中身を検めてみた。学校関係のどうでもいい書類に埋もれて、黄ばんで色あせたノートがあった。「日記 望月法子」と表紙に書いてある。法子は私の祖母の名だ。このノートはとっておきたい。焼かれる前に気づいてよかった。箱の中身を下の方まで確かめたら、祖母が入院していた病院でもらった書類があった。インフォームドコンセントとやらで説明を受けたと父が言っていたのを思い出す。その時の書類だろう。クッシング症候群の疑いと書いてある。これもとっておいたほうがいいのではないか。祖母が亡くなったのは私が十歳のときだった。顔にまで黒いごわごわの毛が生えた祖母の姿を見て、優しいおばあちゃんが変身しちゃったと泣いた覚えがある。結局祖母にはクッシング症候群の治療が奏巧せず、そのまま亡くなった。祖母はなぜあのような奇病で亡くなったのか。
父に片付けをさせると、こうした祖母の思い出に直結するようなものまで捨てられそうだ。今日はもう夕方だからやらないけれど、明日から片付けと私の荷物の荷解きをがんばろう。同時進行で仕事も探さなくてはならない。波須田にハローワークはないからネットで探す。ざっと検索してみたけど、見つかったのは伊栖摩市市街地の店員募集と郊外の工場の仕事だけだった。これではしばらくの間は無職でいることになりそうだ。しかしポジティブに考えれば、時間の余裕があるということでもある。この時間を使ってヤマイについて調べてみるのもいいかもしれない。父が焼いた剥製について調べるのも面白そうだ。
私は思い立って外に出た。焚火跡に残る頭蓋骨を拾い上げると、ぽろりと一本の牙が外れた。水で牙の汚れを洗い流す。淡い飴色の牙は思いのほか美しく、パワーストーンのような御利益がありそうにも見えた。頭蓋骨は持ち歩きたくないが、この牙なら持ち歩いてもいいと思う。明日は、この牙を持って波須田支所図書室と郷土資料館に行ってみよう。
その夜、私は夢を見た。鬱蒼と茂る雑木林に誰か知らない人がいて、私を呼んでいる。急いで行かなくちゃと思うのだけど、何かどろどろしたものが足にまとわりついて身体が思うように動かない。もがいていると突然雑木林が燃え上がった。炎の中で私を呼んでいた人が振り向く。にっと笑った唇から、長い牙が二本ぎらり光った。その顔に見覚えは全くない。でも無性になつかしい。
目覚めは悪くなかった。
【編集者注】
この「牙」について望月氏は「波須田山神社のお犬様の牙に似ている」と述べているが、お犬様は波須田山神社の御神体であり、十三年に一度の御開帳の時のみ公開される。望月氏がお犬様を見たのは九歳だと推測される。望月氏が一度しか見ていないはずのお犬様を即座に連想したのはなぜか。
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