第六章:終末の雨――最後の人類が見た空

 二十世紀。人類史上最も激動の時代。


 わたしは第一次世界大戦の塹壕にいた。フランスとベルギーの国境。ソンムの戦い。何十万もの兵士が塹壕に詰め込まれ、機関銃と大砲の餌食となった。


 塹壕は泥と水で満たされていた。わたしはその泥水の一部だった。兵士たちは膝まで水に浸かって立ち、塹壕足に苦しんだ。寒冷と湿潤による組織壊死。


 ある若い兵士が、震える手でわたしを掬って飲んだ。彼は砲弾の破片で腹部を負傷していた。救護兵は来なかった。彼は独りで死んでいった。


「母さん……家に帰りたい……」


 彼の最後の言葉。わたしは彼の涙となって頬を伝い、泥に落ちた。彼の遺体は数日後に埋葬された。墓標には名前と番号が刻まれた。彼の人生はただの数字に還元された。


 戦争は終わったが、平和は続かなかった。


 第二次世界大戦。さらに大規模で、さらに破壊的だった。ホロコースト、都市への無差別爆撃、広島と長崎への原子爆弾。


 わたしは長崎にいた。一九四五年八月九日。


 午前十一時二分。プルトニウム爆弾「ファットマン」が上空で炸裂した。閃光。熱線。爆風。建物が倒壊し、人々が蒸発し、火災が都市を覆った。


 わたしは爆心地近くの池にいた。水が瞬時に沸騰し、蒸気となった。わたしは蒸気雲の一部となり、上昇気流に乗って空へ昇った。


 下には地獄があった。焼けただれた人々が水を求めて川に飛び込み、そこで息絶えた。生き残った人々は放射線障害に苦しんだ。髪が抜け、皮膚が爛れ、内臓が破壊された。


 わたしは雨となって降った。黒い雨。放射性物質を含んだ雨。人々はそれが危険だとは知らず、飲んでしまった。


 人類は自分自身を絶滅させる力を手に入れた。


 しかし、戦後の復興もまた驚異的だった。廃墟から都市が再建され、経済が成長し、民主主義が広がった。わたしは復興する東京の水道水となった。


 人々は懸命に働いた。焼け野原に家を建て、工場を作り、子どもを育てた。生きることへの執着。どんなに打ちのめされても、人類は立ち上がった。


 ある夏の日、わたしは少女のプールの水となった。


 彼女は友達と笑い、水しぶきを上げていた。太陽が輝き、蝉が鳴き、夏の匂いが漂っていた。彼女は戦争を知らない世代だった。平和な日常。


 その単純な喜び。

 わたしは何十億年も旅をして、この瞬間のためだけに存在してもよいと思った。


 しかし、新しい危機が迫っていた。


 二十一世紀。人類は気候変動に直面した。化石燃料の大量消費が大気中の二酸化炭素濃度を上昇させ、地球の平均気温が上がった。極地の氷が溶け、海面が上昇し、異常気象が頻発した。


 わたしは北極の氷河の一部だった。何万年も凍りついていた古い氷。しかしそれが急速に溶け始めた。夏になっても凍らない。年々、氷河は後退していった。


 ホッキョクグマが氷の上で餓死していた。獲物のアザラシを捕らえる氷が減少し、彼らは飢えた。母グマが二頭の子グマと共に、氷のない海を泳いでいた。数十キロメートルも泳がなければならない。子グマたちは疲れ果てた。一頭が溺れた。母グマは必死に子を助けようとしたが、できなかった。


 生態系が崩壊していった。珊瑚の白化、森林火災、砂漠化。生物種の絶滅速度が加速した。


 人類は対策を試みた。再生可能エネルギーへの転換、二酸化炭素の回収、植林。しかし、それは十分ではなかった。もしくは遅すぎた。


 二十二世紀後半。地球の平均気温は産業革命前から四度上昇した。赤道付近は居住不可能となり、数億人が北へ移動した。水不足、食糧不足、難民危機。


 人類は地下都市を建設した。人工的な環境で生き延びようとした。わたしは閉鎖系の水循環システムの一部となった。完全にリサイクルされ、何度も使用された。


 しかし、それも永続的な解決ではなかった。


 二十五世紀。太陽が変化し始めた。主系列星から赤色巨星への進化。まだ数十億年先のはずだったが、何らかの異常が起こっていた。太陽の光度が増し、地球の温度が上昇した。


 海が沸騰し始めた。


 最後の世代の人類は、宇宙船で脱出を試みた。しかし宇宙船の数は限られていた。誰が行き、誰が残るのか。抽選が行われた。泣き叫ぶ人々、諦めた顔の人々、静かに祈る人々。


 わたしは最後の宇宙船の給水タンクにいた。そして発射の瞬間、配管の破損によって宇宙空間に放出された。


 地球に残った人々は、最後の日々を過ごした。もう希望はなかった。しかし彼らは人間らしさを失わなかった。音楽を演奏し、詩を朗読し、互いに抱き合った。


 地球最後の雨が降った。


 わたしはその雨の一滴だった。荒涼とした大地に落ち、すぐに蒸発した。もう循環は続かない。地表の温度は水の液相を許さない。


 わたしは蒸気となって大気に昇った。大気もまた剥ぎ取られつつあった。太陽風が強まり、地球の磁場が弱まり、大気が宇宙空間に流出していた。


 そしてある日、わたしは地球の重力を振り切った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る