第二章:恐竜の涙――大絶滅を越えて
三畳紀の海は、静かだった。
大量絶滅の傷跡はまだ生々しく、生物多様性は低かった。しかし生き残った者たちは、新しい可能性に満ちていた。爬虫類が海に戻り、魚竜となった。陸上では、恐竜の祖先となる主竜類が現れた。
ある日、わたしは巨大な首長竜の体内に入った。
彼女の名前はわからない。
おそらくないのだろう。
しかし彼女には確かに個性があった。
他の首長竜よりも好奇心が強く、深海まで潜り、未知の獲物を追った。わたしは彼女の血液の一部となり、脳に酸素を運んだ。
そして、彼女の記憶の断片に触れた。
それは驚くべき発見だった。記憶は脳のニューロン結合だけに保存されているのではなかった。体液の化学組成、ホルモンのバランス、細胞膜の構造。あらゆる場所に、過去の痕跡が刻まれていた。そしてわたしは、それを読み取ることができた。
彼女は仲間を失っていた。一緒に泳いでいた雄の首長竜が、より大きな捕食者に襲われて死んだ。彼女は逃げた。しかし後悔と悲しみが、彼女の体液の化学組成を変えていた。
ある日、彼女は海面に浮上し、鳴いた。長く、悲しげな声。誰に向けたものかはわからない。死んだ仲間が、それとも広大な海にか。
その時、わたしは彼女の涙腺を通った。塩水が眼球表面を濡らし、海に落ちた。わたしも一緒に。
それは初めて感じた「悲しみ」だった。
あえて言えば化学物質の反応として説明できる種のものだった。ストレスホルモンのコルチゾール、神経伝達物質のセロトニンの低下。しかしそれは同時に、数値では測れない何かでもあった。
孤独。喪失。愛。
わたしは海に落ち、波に揺られながら思った。生命とは何なのか? 彼らはなぜ苦しみ、なぜ喜ぶのか? 生存と繁殖だけが目的なら、感情は必要ないはずだ。しかし彼らは感じる。わたしもまた、彼らと共に感じている。それはなぜだろうか。
ジュラ紀が来た。
恐竜は巨大化し、多様化した。陸上には竜脚類の巨体が地響きを立てて歩き、空には翼竜が舞い、海には首長竜が君臨した。わたしは彼らすべての一部となった。
ある夏、わたしは巨大なブラキオサウルスの体内にいた。彼は老いていた。心臓の動きが不規則で、血流が滞りがちだった。わたしは彼の心臓を通る度に、その疲労を感じた。
彼は湖の畔で立ち止まり、水を飲んだ。わたしは彼の口から出て、湖に落ちた。彼はしばらく湖面を見つめていた。何を考えているのかはわからない。しかし彼の目には、諦念に似た静けさがあった。
数日後、彼は倒れた。巨体が地面に沈み、もう立ち上がることはなかった。腐肉食動物たちが集まり、彼の肉を食べた。骨は土に埋もれ、やがて化石となるだろう。
わたしは雨となって彼の骨を濡らした。
さようなら、偉大な巨人よ。
あなたの存在は、この惑星の記憶に刻まれるだろう。
白亜紀後期。恐竜の時代は頂点に達していた。
ティラノサウルス、トリケラトプス、エドモントサウルス。北米大陸には多様な恐竜が繁栄していた。気候は温暖で、極地にも森林が広がっていた。このまま永遠に続くかのように思えた。
しかし、終わりは突然来た。
六千六百万年前のある日、直径十キロメートルの小惑星が地球に衝突した。
わたしはその時、太平洋上空の雲の中にいた。閃光が空を切り裂き、衝撃波が大気を震わせた。ユカタン半島のチクシュルーブ。小惑星はそこに激突し、TNT火薬百兆トン分のエネルギーを解放した。
地殻が砕け、マグマが噴き出し、岩石が蒸発して大気中に巻き上げられた。衝撃波が地球を何周も回り、全世界で地震と津波が発生した。噴き上げられた岩石は宇宙空間まで達し、再突入する際に大気を灼熱に加熱した。世界中で森林火災が発生した。
わたしは灰と煤煙に満ちた大気の中を漂った。太陽光が遮られ、気温が急激に下がった。光合成が停止し、植物が枯れ、草食恐竜が餓死し、肉食恐竜も後を追った。
わたしは雨となって、死にゆく恐竜たちに降り注いだ。
若いティラノサウルスが、空腹で倒れていた。彼はまだ成体になっていなかった。獲物がいなくなり、数週間何も食べていなかった。雨が彼の鱗を濡らした。彼は雨水を舐めたが、それでは飢えは癒せない。
彼は目を閉じた。
もう開くことはなかった。
わたしは彼の体から蒸発し、再び空へ昇った。下には無数の死骸が横たわっていた。恐竜だけではない。翼竜、アンモナイト、多くの海洋生物。地球の生物種の七十五パーセントが絶滅した。
一億六千万年続いた恐竜の時代が、終わった。
しかし、すべてが終わったわけではなかった。
地中に潜んでいた小さな哺乳類たち。
彼らは生き延びた。
体が小さく、食物要求量が少なく、夜行性で寒さに強かったからだ。
恐竜が去った後、彼らは地上に現れ、新しい世界の主役となった。
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