第31話 「血と葛藤」


静かな朝だった。

宿屋のベッドはまだぬくもりを残し、外へ出るための一歩がやけに重い。

昨日の焚き火の残り香はもうどこにもない。代わりに、冷気が肌へ薄く貼りついた。


「おはようございます、ノアさん。さぁ、ギルドへ行きますよ」


クロエはすでに着替えを済ませ、鏡の前で髪を結んでいる。

彼女はすでに気合十分か……。

俺だけが、いつまでも横になっているのは、どうやら許されないらしい。

よし、今日も働くとしよう。


クロエと並んで歩く石畳の道は、どこか穏やかに感じる。

ひんやりとした空気が肺に落ち着く。ゆっくりと冷たさと目が覚める感覚を運んでくる。まるで何事も起きやしない――そんな錯覚まで抱いていた。


だが、ギルド《歩貨の盾》の扉を押し開けた瞬間、世界はざらついた音に満たされた。


皮鎧の擦れる音、椅子の脚が床をひっかく音、冒険者たちの靴が床を叩く乾いた響き。いつもの雑音に交じり、怒号が聞こえる。

焦りと緊張の匂いがギルド全体を満たし、空気が刺すように尖っていた。


「……何かあったのでしょうか?」

「なんだろ。ちょっと聞いてみよ」


若い受付嬢は寝不足の影を目の下に落とし、顔色も悪い。


「あぁ、最近来た冒険者の方ですね。実は昨晩、街中で死者が出ました。

――それも二人。どちらも吸血され、干からびるように死んでいたそうです。

間違いなく、吸血鬼の仕業です。お二人も気を付けて」


一瞬、頭の奥が冷えて固まった。

まるで、心臓が冷たい穴に落ちたみたいに止まる感覚。

横では、クロエも肩を小さく震わせる。


――あいつらだ。


俺を狙ってきた吸血鬼たち。

その手が、無防備な一般人を巻き込んだのだ。

喉の奥が焼けつくように痛む。呼吸が重い。


ギルドの奥では、熟練冒険者たちが銀の武器をテーブルに並べている。

そして聖水や乾燥ニンニクといった、吸血鬼の弱点となる物を買い揃える相談を始めている。どうやら、本気で吸血鬼狩りをする準備を始めているようだ。


「緊急依頼――吸血鬼(ヴァンパイア)討伐、Aランクだってさ。

追加でギルドポイントも貰えるらしい」

「Aランク……Sランクじゃなくて、ですか?

彼らは気づいてないですが、今回の相手は一体じゃありませんよ」


クロエは奴らの力も規模も知っている。

そのせいで、声の震えを隠しきれていなかった。


ざわめきの渦の中、見知らぬ先輩冒険者が俺たちに声を飛ばしてきた。


「お前ら新人だろ。依頼に出るのは良いが、日暮れ前には絶対に戻れ。

今、街の外はおろか、街中も吸血鬼のねぐらみたいなもんだ。

どこに潜んでるか分かったもんじゃねぇ」


脅しではなく、本気の声音。

被害に遭わないための忠告。

恐らくこの忠告は、すぐに街中を駆け巡るだろう。


クロエは俯(うつむ)き、俺は拳を握る。


「どうすれば良いと思う? 俺が街を移動しても……意味ないよね」


例え、俺が別の街に逃げたとしても、奴らはどこまでも追ってくるだろう。

逃げたのに気づかなければ、この街で吸血鬼被害が続くだけだ。

解決に至る訳じゃない。


「そうですね。彼ら――吸血鬼たちは、この街を包囲していると思います。

昼間だろうと、どこかの影に潜みつつ、監視はしているはず」

「じゃあ、片っ端から戦うしかないか……」


狙いは俺なのだ。

包囲している奴らを全員返り討ちにして、そのあとに身を隠すしかない。

奴らは血の匂いを嗅ぎつけて、俺の場所を探している。

あの夜――神鹿との戦いの後。血まみれのまま移動したのが、見つかった原因だ。

今後は気を付け、同じ轍(てつ)は踏まない。

ここで清算して、もう俺たちを追わせなければいい。


「それも、だめです!」


クロエの声が震えた。


「ノアさんが一人で戦っても――“確実に”負けます。

いくらノアさんが強くても、全員を相手するなんて無理なんです」

「それでも、無関係の人の死を見過ごせない」


俺のせいで犠牲者が出た。

納得なんてできるはずがない。


「……わかっています。だけど、この街の冒険者たちに数を減らしてもらうのが最善です。た、例えさらに被害者が出ても……いずれ王都からの冒険者や騎士が動いてくれるはず。それまで、我慢してください」


クロエの瞳が揺れる。

悔しさと恐怖と、何を犠牲にしても俺を守ろうとする意志が混ざった瞳。


「お願いです……ノアさん」


俺の袖を掴む手が震えている。

彼女は自分のことを考えているんじゃない、俺の事を心配して言っているのだ。


「……わかったよ。戦わないで、様子を見る」


吐き出した声が、自分のものじゃないみたいに乾いていた。

クロエが小さく息をつく。それでも表情が晴れることはない。


街は包囲され、夜になれば血が流れる。

俺はその中心にいるくせに、手も足も出せない。

逃げることも、戦うことも出来ない傍観者。


気付けば――指が白くなるほど、強く拳を握っていた。

静かに明けたはずの朝が、こんなにも重く沈むなんて想像もしなかった。




◇◆◇




一方その頃。


砦街アーデルにいた《聖銀旅団》のゾルデ達は、すでにその街を立っていた。

厚い雲を頭上に抱えた昼下がり、黒い殺意の集団は南西を目指す。

血痕羅針(ヘマコンパス)が指し示す先――交易都市ベイルハートへと。



先日、この街に到着してすぐ。

《聖銀旅団》の面々は冒険者ギルドの扉を押し開けた。

そこで、吸血鬼の少年――ノアについての情報を集め始めた。


――ノア。

その名を口にした瞬間、受付嬢の視線が揺れた。

近くにいた冒険者たちが一斉に振り返る。

まるで合図のように、彼の噂が続々と語られ始める。


「ノアといえば、あの新星(ルーキー)だろ? 

水晶蟹(アクアクラブ)を撃退したってやつ」

「なんでも、とんでもない魔導収納具を持ってるらしいぜ。

実は貴族の子で、大金持ちって噂だな」

「天才料理人だぜ。奴の作ってくれた魔物料理は、信じられないくらい美味かった。

味噌っていう万能調味料を……」

「俺たちが雪山で遭難した時にな。アイツは一人で助けに来てくれた。

命の恩人だよ。吸血鬼なんて、馬鹿言うな」


明らかに誇張らしい噂も混じっていた。

だが、どの噂も“好意”に染まっていたのは間違いない。

聞けば聞くほど、まるで英雄のような扱いだ。

誰しもが、彼らのいうノアは、吸血鬼ではないと断言している。


(人間から……ここまで信頼されている?)


ゾルデが、眉間(みけん)の皺(しわ)を更に深めた。


さらに、カノンという若い冒険者は言った。


「ノアなら、もう街を出てったぜ。交易都市ベイルハートに向かうと言い残してった。言っとくが、お前らが捜しているような吸血鬼なんかじゃねぇぞ?

あいつとは同期だから、間違いない」


結局、街での聞き込みでも、吸血被害の噂は何一つ出てこなかった。

血を吸われた痕跡も、夜の襲撃の話も何もない。


ゾルデの脳裏に、あの日の少年の姿が蘇る。

俺にボロボロにされて、血まみれの状態。

それでも、『これからも人間を襲わない』まっすぐすぎるほどの瞳でそう言い切った姿だ。


(まさか……本当に、血を吸っていない?)


吸血衝動は本能だ。

半人半魔だろうと、それを抑え続けられるとは思えない。

抑えているのだとしたら――その内側では、地獄みたいな苦痛に耐えているはずだ。


(どちらにせよ、吸血鬼の血は全て断つ。例外は……ない)


「この街で吸血鬼被害は確認できなかった。これより、ノアの追跡を続行する。

次なる目的地は、交易都市ベイルハートだ!」


ゾルデの号令が重く響く。

聖銀旅団は、彼の指示に従いすぐさま動く。


アーデルの城門を抜ける彼らの影は鋭かった。

黒の外套(がいとう)の下、鎖帷子(くさりかたびら)の揺れる音が、まるで戦場に向かう戦士のようだ。


――吸血鬼を狩るための旅団。

容赦のかけらもない、黒い殺意の集団。


すでに、“追跡”ではなく“処刑”の足取りで。

彼らはノアのいる街へ、静かに、確実に迫っていた。

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