第21話 毒杯

季節は夏に向かっていた。草原の草は青々と茂り、馬たちは肥え太っていく。だが、その豊かな季節とは裏腹に、草原の空気はきな臭さを増していた。

「十三翼」での戦い以降、義経の元には、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、人々が集まり続けていた。

今や彼の軍勢は千騎を超え、その野営地は一つの移動都市の様相を呈していた。ジャダランから奪った物資のおかげで装備は充実し、連日の厳しい調練によって、新参者たちも「蒼き狼」の軍団としての規律を叩き込まれていた。

義経は、巨大なゲルの奥で、各地に放った草(間者)たちからの報告に耳を傾けていた。


「……ジャムカ様は焦っておられます。敗戦の責任を部下に押し付け、粛清を行っているとか」

「傘下の部族の間にも動揺が広がっています。『蒼き狼の方が、気前が良いらしい』と」

義経は満足げに頷いた。彼が仕掛けた情報戦は、確実に効果を上げていた。

誇り高きジャムカにとって、一度ついた「不敗の傷」は、放置すれば腐敗を広げる毒となる。


「そろそろ、仕上げといくか」

義経は地図の一点を指差した。

ジャダランの本拠地の南東に位置する、タイチウトという部族の縄張りだ。彼らはジャムカの強力な同盟者であり、千騎以上の兵力を有する大部族だった。


「タイチウトの長、タルグタイ。奴は強欲で、日和見主義者だという噂だな」

傍らに控えるボオルチュが頷く。

「はい。ジャムカ様の威光に従ってはいますが、腹の底では不満を抱いているようです。戦利品の配分が少ない、と」

「ならば、話は早い」

義経の目に、冷たい計算の光が宿った。

「力で奪うだけが能ではない。時には、毒を盛った杯を差し出すことも必要だ」

          


数日後。タイチウト族の長、タルグタイの豪華なゲルに、一人の使者が訪れていた。

ジャダランの高級鎧を身に纏い、堂々たる体躯をした男、ボオルチュだ。

彼はタルグタイの前に、見事な黄金の馬具や、上質な絹織物を山と積み上げた。すべて、ジャダラン軍から奪った戦利品だ。


「これはいったい……?」

強欲なタルグタイの目が、財宝に釘付けになる。

「我が主、クロウからの贈り物だ」

ボオルチュは恭しく言った。

「我が主は、貴公の武勇と聡明さを高く評価しておられる。ジャムカのような、誇りばかり高くて実入りの少ない男の下にいるのは、損失だと考えておられるようだ」

「……ほう?」

タルグタイが興味を示した。彼は常々、ジャムカの偉そうな態度に辟易していたのだ。


「単刀直入に言おう。我らと手を組まぬか。ジャムカを倒した暁には、その領土と財産の半分を貴公に約束しよう」

それは、あまりにも魅力的な提案だった。今のジャムカは不安定だ。ならば、勢いのある新興勢力に乗り換えるのも悪くない。


「……よかろう。その話、乗った」

タルグタイは、欲に目がくらみ、義経が差し出した毒杯を飲み干した。


「では、証として、明日の正午、あそこの谷で会合を行いたい。今後の共同作戦についての密議だ。互いに、護衛は三百騎までとしよう」

「承知した。必ず参じよう」

タルグタイは、目の前の財宝の山を撫で回しながら、下卑た笑みを浮かべた。

          


翌日の正午。約束の谷に、タルグタイは精鋭三百騎を引き連れて現れた。彼は上機嫌だった。これで自分は、草原の覇者の片割れとなるのだ。

谷の中央で、義経が同じく三百騎を連れて待っていた。

「よく来てくれた、タルグタイ殿」

義経は馬上で丁寧に頭を下げた。その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。

「うむ。クロウ殿、いや、これからは同盟者よ。して、ジャムカをどう料理する?」

タルグタイは無防備に義経に近づいていった。

二人の馬が並んだ、その時だった。

義経の穏やかな笑みが、瞬時にして凍りついた能面へと変わった。


「……料理するのは、ジャムカではない」

「え?」

タルグタイが間抜けな声を上げた瞬間、義経が手を振り下ろした。

ヒュォォォッ!

谷の両側の崖上から、伏せていた義経軍の主力七百騎が、一斉に姿を現した。

約束の三百騎など、真っ赤な嘘だったのだ。


「なっ……貴様、謀ったな!?」

タルグタイが顔面蒼白で叫ぶ。

「謀り? これは商談だ」

義経は冷酷に言い放った。

「お前のような裏切り者は、信用に値しない。だが、お前の兵力と財産は魅力的だ。だから、私がすべて貰い受けることにした」

「き、貴様ぁぁっ! 誇りはないのか!」

「誇り? それが腹を満たしてくれるなら、今頃ジャムカは世界を征服しているだろうよ」

義経は、腰の刀を抜いた。


「やれ。一人も逃がすな」

それは、戦いではなかった。騙し討ちによる、一方的な虐殺だった。

谷底に閉じ込められたタイチウトの三百騎は、上からの矢の雨と、下からの突撃によって、瞬く間に殲滅された。

タルグタイは、義経自身の手によって首を刎ねられた。彼の首は、最期まで信じられないという表情で目を見開いていた。

静寂が戻った谷底で、義経は刀の血を振るい落とした。

ボオルチュが、複雑な表情で近づいてきた。


「……これで、タイチウト族は長を失い、混乱に陥るでしょう。残された民と兵は、容易に吸収できます」

「ああ。これで我らの兵力は二千近くになる」

義経は、タルグタイの首を見下ろした。

「汚いやり方だと思うか、ボオルチュ」

「……いえ。これもまた、将軍の強さです」

ボオルチュは深く頭を垂れた。彼はもう、この男のやり方に疑問を抱くことはやめていた。この男は、勝つためなら悪魔とだって手を組むだろう。

「ジャムカは、強大な同盟者を一つ失った。次は、奴の喉元に牙を突き立てる番だ」

義経は北の空を見上げた。

そこには、不穏な雷雲が渦を巻いていた。

蒼き狼は、もはや草原の秩序を乱す異端児ではない。

秩序そのものを破壊し、飲み込もうとする、巨大な災厄となろうとしていた。

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