第46話 迷惑な飼い主たち

仲間たちが街中を捜索している頃、当の黒猫本人は、ソファでくつろぎながら、隣のロボット猫と一緒に壁面テレビを見ていた。


 LKは大あくびをした。碧色の瞳が細くなる。


「ベイビー、あめちゃんあげる」


 白くて丸々とした小さな手が伸びてきた。  男の子が期待に満ちた目で見つめている。


 『ベイビー』と呼ばれた猫様は、完全無視を決め込んだ。  空腹で目が回り、背中と腹がくっつきそうだが、ガキが差し出す怪しいキャンディなど絶対に口にしない。


「シュン、言ったでしょ。猫は飴を食べないの」


 女性がリビングに入ってきた。


 トレイシーは徹夜明けだったが、その倦怠感さえも隠せないほどの美貌の持ち主だ。


 LKはトレイシーを知っていた。  もっと言えば、彼女のファンだった――彼女の作る『脳波ドラマ』の。


 脳能力が普及した夢の世界・22世紀において、脳波インフルエンサー(ライバー)たちはネットワークを通じて脳波を配信する。  音楽、小説、旅行体験、あるいは荒唐無稽なファンタジー。  ハイテク機器を用いた脳波伝達により、彼らの作品はより遠くへ、より多くの人々の脳内へと届けられる。


 トレイシーは、脳内で描いたストーリーを映像化して他人に伝える能力を持つライバーだ。


 従来の映画やドラマと違い、金も労力もかからない。  脳能力さえ高ければ、脚本家、監督、主演のすべてを一人でこなせるのだ。


 トレイシーは自身の全作品で唯一のヒロインを演じており、その人気はスクリーンの大女優にも劣らない。


「ほら、ベイビー。ピザよ」


 トレイシーはデリバリーの箱から一切れ取り出した。


 強烈なチーズの匂いが鼻を突く。  猫科の動物にとって、それは腐敗臭に近い。  LKは白目を剥きたくなった……もし猫にそんな芸当ができるなら。


 ニャー(勘弁してくれ)!  黒猫は文句を言い、体を丸めて、この常識知らずの姉弟を無視することにした。


「シュン、そろそろ下りなきゃ。スクールバスが来てるわよ」


「夜になったら、また怪物ドノックのお話してくれる?」


 小学一年の男の子は、素直にランドセルを背負った。


 少年の部屋はモンスター・ファミリーのポスターで埋め尽くされている。  彼は見た目は怖いが心優しい巨大な獣たちを愛し、絵本を繰り返し読んでいた。


 トレイシーもシュンくらいの歳の頃は、童話が大好きだった。  文字から情景を思い描く力が、現在の脳能力の基礎を作ったのだ。


 シュンは出かける前に何度か黒猫を抱きしめようとしたが、冷ややかな視線に拒まれた。


「気にしないで、シュン。野良猫なんてみんなそうよ」


「ベイビーは野良じゃないよ。首輪が落ちちゃっただけだもん!」


「はいはい、分かったわ。早く行きなさい。ミロック先生は時間を守る子が好きよ」


 シュンがドアを閉めて出ていくと、トレイシーは黒猫がホッとした顔をしたのを見て取った。  本当に変な猫だ。


第57話 野犬の群れと、黒い影

 二日前、数ブロック先の路地裏でベイビーを見つけた時、猫は数匹の野犬に囲まれていた。  後ろ足は血まみれでねじ曲がり、骨が見えるほど噛み砕かれていた。


 だが、痩せっぽちで脚を折られた黒猫は、怯える素振りも見せなかった。  背中を丸め、全身の毛を逆立て、自分より数倍も大きな野犬たちを虎視眈々と睨みつけていた。  喉を鳴らし、隙あらば喉笛を食い千切らんとばかりに。


 その尋常ならざる気迫が、シュンとトレイシーを引きつけたのかもしれない。


「お姉ちゃん、助けなきゃ!」


 少年は一歩踏み出し、野犬の群れに挑もうとした。


 トレイシーは弟の無謀な行動に仰天し、スーパーで買ったばかりの洗剤の袋を投げつけた。  白い粉塵が爆発し、犬たちが混乱した隙に、彼女は猫をひっつかみ、シュンの手を引いて走り出した。


 長年昼夜逆転生活を送り、運動不足極まりない夜型ライバーに、犬の群れから逃げ切る自信などない。  背後から、激怒した犬たちの吠え声が近づいてくる。


 まずい、追いつかれる!


 トレイシーは必死すぎて、頭上を黒雲のような影が横切ったことに気づかなかった。


 その巨大な影は野犬の群れに向かって急降下した。  直後、悲鳴のような鳴き声が上がり、それ以降、二人と一匹を追ってくる犬はいなくなった。


 しかし、命がけで拾ってきた黒猫は、ほとんど何も口にしようとしない。  今のピザもそうだ。


 (頼むから、猫が食えるものをくれよ!)  LKは心の中で絶叫した。


 トレイシーは心配そうに猫を見つめ、ポンと手を打った。


「ピザが嫌なら、ミルクはどう? テレビの猫はみんなミルク飲んでるし」


 家事ロボットがのそのそとやってきて、ソファの前のテーブルに、なみなみと注がれたホットミルクを置いた。  それは本当に「一杯」だった。  生ビール用のジョッキなのだ。


 テレビ電話の着信音が鳴り、トレイシーは席を立った。


 22世紀になっても、テレビ電話は健在だ。  脳波通信だと自分を美化して伝える詐欺師がいるため、「画像あり」の真実は依然として重宝されている。特に女性同士の間では。


「あら、やっと出たわねトレイシー。あなたの顔を拝めるのは、チケットを買った黄金VIPだけかと思ったわ」


 画面の向こうでミドが笑った。


「冗談はやめて、ミド。最近、ホンリンに会った?」


「そのための電話? まだ探してるの?」


「最近ビデオ通話した時は、あんなに元気だったのに……」


 ミド、トレイシー、そしてホンリンは、ほぼ同期の脳波インフルエンサーだ。  同じギルドに所属し、表向きはライバルだが、プライベートでは親友だった。


 三人の中で最も人気があったのはホンリンだ。  彼女の感動的な「心のチキンスープ(癒やしの物語)」は常にトレンド入りしていたが、最近完全に消息を絶ってしまった。


「この業界は回転が速いから、数日休むだけでファンが離れるわ。賢いホンリンがそれを承知で姿を消したってことは、言えない事情があるのよ」


 ミドは諭すように言った。


「それよりあなた、自分の心配をしたほうがいいんじゃない? ドラマの購読者数が激減してるって聞いたわよ」


 トレイシーはドキリとした。  ミドが知っているなら、ギルド中が知っているということだ!


 確かに彼女は、文字やストーリーを映像化する能力には長けているが、物語を創作する才能は皆無だった。  これまでの脚本はすべてホンリンが書いていたのだ。  ストックが尽き、自分で無理やり続きを書いた結果、ファンからは「設定ガバガバ」「尺稼ぎ乙」と酷評され、登録解除が相次いでいる。


 これが、彼女が必死にホンリンを探す最大の理由だった。  もうネタ切れなのだ。


 トレイシーは強がった。


「心配ご無用よ。私のファンは地球一周分いるんだから、こんなのただの一時的な不調よ」


 電話を切ると、彼女は寝室へ向かった。  徹夜の配信で疲れ果てていた。  バフッという音と共に雲のように柔らかい布団にダイブし、秒で眠りに落ちた。


 リビングに残された黒猫は、ミルクを数回舐めたが、水位が下がって届かなくなってしまった。  グラスは深く、内側は滑る。  首を必死に伸ばし、前足で取っ手を掴んで引き寄せようとした瞬間、ツルリと足が滑った。


 ガシャーン!  ビールジョッキごと床に落下し、白いミルクが床一面に広がった。


 プライドを捨てて床を舐めるくらいなら、死んだほうがマシだ。  黒猫は突っ伏した。  空腹で目眩と耳鳴りがする。


 彼は前足でテレビのリモコンを叩き、気を紛らわせようとした。


 脚の痛みと空腹で意識が朦朧としており、ニュースの内容は耳に入ってこなかった。


 ――最近、市内で巨大怪獣の目撃情報が相次いでいます。専門家はホログラム映像による悪質な悪戯、あるいは『オリジナル・ファンタジア』の拡張パックに向けた宣伝活動ではないかと分析していますが、ストーム・テック社代理CEOは関与を否定しており……


 ふと、窓の外を何かが一瞬で横切った。


 LK猫が面倒くさがらずに顔を上げていれば、見えたはずだ。  58階の窓の外を、巨大な黒いドラゴンが翼を広げて飛んでいくのを。


 ドラゴンの鋭利な尾の棘が、何気なくマンションの二重ガラスを掠めた。


 世紀のハリケーンにも耐えうると謳われた強化ガラスが、朝食のナイフで切られたバターのように、音もなく切り裂かれた。

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