第6話 リアル世界の憂鬱

車が中学校の校門前に着いた。


 始業式の日だから、すでに多くの生徒が登校している。  親友の亜美(アミ)が手を振っているのが見えた。


「放課後、迎えに来てやろうか?」


「いらない!」


 莱亜は大声で叫んで、周囲の視線を集めてしまった。


 風也はハハッと笑い、気にする様子もなく手を振って車を出した。


 高級車が走り去るのを見送ってから、亜美が彼女の肩を叩いた。


「いいわねぇ、あんなにイケメンで優しいお兄さんがいて」


「あげるよ、熨斗(のし)つけて」


「贅沢な悩みだこと」


 莱亜の成績は体育以外ボロボロで、先生が匙を投げて母を呼び出したこともある。  でも母は「家にはもう一人天才がいるから、娘は普通で健康ならそれでいいのよ」と笑っていた。


 なんて理解のある家族、なんてハイスペックな兄。  前世でどんな徳を積めばこんな環境に生まれるのか。


「白状しなさいよ、前世で世界でも救ったの?」  亜美が空を仰いで言った。


「いや、兄に言わせれば、私は夢の中で世界を救ってるらしいよ」  莱亜はため息をついた。


 亜美は知らない。  莱亜が家族に甘やかされている本当の理由を。


 彼女は幼い頃からADHD(注意欠陥・多動性障害)と診断されていたのだ。


 授業中に頻繁に意識が飛んでしまうのが主な症状で、成績不振の直接の原因だ。  特効薬はなく、幼い頃に新薬を試したこともあったが、副作用で幻覚を見たり食欲不振になったりしたため、風也が猛反対して治療をやめさせた。


 テストの点が悪くても、先生に呼び出されても、死ぬわけじゃない。  家にはすでに人類の至宝みたいな天才がいるんだから、自由に生きればいい――それが家族の結論だった。


 見続ける夢がADHDと関係があるのか、莱亜には分からない。  兄に聞いてもはぐらかされるだけだ。


 まあいいや。  彼女の生活に支障はないし、それより始業式の方が大問題だ。


 莱亜と亜美は談笑しながら教室に入ったが、すぐにクラスに漂う真面目な空気に気圧された。


 嘘でしょ!  今日は始業式初日だよ、そんなに頑張る必要ある?  夏休みの宿題なんて、登校日に全部写させてもらったじゃない。


「今日、午後に英語の実力テストあるよ」  亜美がリマインドしてくれた。 「何その顔、夏休み中ずっと『モンスト』でもやってたの?」


「いや、私が育ててたのは『ウマ娘』」


「アンタとは会話が成立しないわ」  亜美は残念そうに言った。


 休み明けにいきなりテストなんて、生徒のやる気を削ぐだけだ。  莱亜が二ヶ月間、寝転がってドラマを見続けていた間に、世の中には雨の日も風の日も塾に通っていた人種が存在する。


 例えば、永遠の学年一位、愛佳(アイカ)とか。


 遠くに愛佳の姿が見えた。  夏休み前までは、トイレに行くのも一緒なほど仲良しだったのに、今は口もきいてくれない。


 今から謝りに行けば、ヤマを張った箇所を教えてくれたり、テスト中にこっそりメモを回してくれたりしないかな……。


 そんな淡い期待は、愛佳からの冷ややかな視線によって粉砕された。


 莱亜は唇を尖らせ、残酷な現実を直視せざるを得なかった。  急いで復習しなきゃ。泥縄でも何もしないよりはマシだ。


 鞄から単語帳を取り出した。  一学期から「B」の項目までしか進んでいない単語帳を……理由は一つ。


 莱亜には、単語を暗記しようとすると即座に眠くなるという特技がある。  彼女にとって、単語帳は睡眠導入剤そのものだ。


「おい莱亜、寝るなよ。次は移動教室だぞ、おいおい」


 莱亜は目を閉じていた。  亜美の声が遠くなる。


 彼女はBから始まる英単語を呪文のように呟きながら、意識を手放した。


 ――まぶしい。誰かが教室のカーテンを全開にしたみたいだ。


 莱亜はあいまいに手を伸ばしてカーテンを閉めようとしたが、掴んだのはフワフワとした温かい何かだった。

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