第4話 異能の代償と、貧乏塾長の秘密

タピオカ店の店員の怪我は、レイアが心配していたよりもずっと軽かったことがわかった。


 弾丸は右肩の肉を貫通しただけで、骨にも神経にも達していなかったらしい。


 夜のニュース番組では、包帯を巻いた店員が、誇らしげにインタビューに答えていた。


「たぶん、生まれつき勇敢なんでしょうね、僕は。昔から喧嘩を見ると止めに入らずにはいられないタイプでして。あの悪人が女の子を狙った瞬間、頭が真っ白になって、気がついたら体が動いていました! ハハハ、深層心理では僕もヒーローだったってことですかね」


 店員はカメラに向かって包帯姿の腕を掲げてみせた。  肩の銃創は、彼にとって勲章のようなものらしい。


 そのニュースを、ソファにぐったりと沈み込んだまま見ていたLKが、鼻で笑った。


「よく言うよ。あいつに1ミリでも勇気があったら、俺だってこんなに消耗しなかったのにな」


 LKはまだ顔色が悪い。


 ニュースは次の話題に移った。  最近多発している「少年少女の行方不明事件」についてだ。


 行方不明になるのは主に学生で、家出として処理されることも多いが、実際にはほとんどが戻ってこない。  脳波ネット上では、人気インフルエンサーの『紅鈴(ホンリン)』が被害者家族のコミュニティを立ち上げ、話題になっているという。


 見ていて気が滅入るニュースだ。  レイアは壁面テレビのスイッチを切り、LKに向き直った。


「私、明日あの店員さんのお見舞いに行ってくる。やっぱり、命を助けてもらったわけだし」


 LKはソファで寝仏のように横たわったまま、電子コミックのページをめくっていた。  瞼も上げずに言う。


「俺が他人の意思を捻じ曲げて、無理やり英雄に仕立て上げたのが気に入らないってか?」


「い、いや、そんなこと言ってないけど……」


 でも、レイアの心の中ではちょっとそう思っていた!


 パタン、とLKがコミックを閉じた。  彼は無表情のまま、老人のようにゆっくりと身を起こした。


「疲れた。もう寝る」


 少年は足を引きずるようにして自室へと向かった。  本棚の上から黒猫が飛び降り、彼がドアを閉める瞬間に、隙間から部屋へと滑り込んだ。


 この世界では、脳力の強弱がすべてを決める。  レベル0から10まで、その能力は細かくランク付けされている。


 0級は受信専用。  1級から簡単な発信ができ、5級で大半の人が頭打ちになる。  6級以上のプロフェッショナルや、8級以上のマスタークラスなんて、レイアのような一般人には雲の上の存在だ。


 だが、LKの脳力はそのどれにも当てはまらない。  彼は、特定の範囲内で他人の精神に干渉し、行動を操る力を持っていた。  相手に「そうしたい」と思わせ、操られたことすら自覚させない。


 ただし、相手の本来の意志に反する行動を強制すればするほど、LK自身の精神と体力を激しく消耗する。 「死んだふりをするほど臆病な男」を「銃弾の前に飛び出させる」なんて、無茶苦茶な命令を実行させたせいで、LKの体はボロボロだった。


 LKはベッドに倒れ込み、泥のように眠った。  彼が最後に見たのは、ベッドの上に座って不思議そうに自分を見つめる黒猫の姿だった。


「お前だけだよ、分かってくれるのは」


 彼は小さく呟き、重い瞼を閉じた。


 夜が更け、一家の大黒柱であるナツ先生が補習塾の仕事を終えて戻ってきた。


 ナツ先生は三十代半ばに見えるが、髪には白いものが混じり、肩まである赤みがかった髪をいつも輪ゴムで適当に束ねている。  レイアが疑うに、彼が長髪なのは単に理髪代をケチっているからだ。


 下の階で『今日発』という怪しい名前の脳力開発塾を経営する彼は、講師であり、塾長であり、経理担当であり、そして清掃員でもある。  掃除ロボットより自分の労働力の方が安いという理由だ。


 先生のドケチ根性からすれば、『今日発』のスタッフが一人で回るなら、絶対に二人目は雇わないだろう。


「おや、レイア。起きていたのかい」


 ナツ先生は細い目をさらに細めて笑った。


「今日の新規入会はどうだった? 年間VIPコースを契約した鴨……じゃなくて、お客様はいたかな?」


「これが今日の分」レイアはタブレットを渡した。「今日は『常勝』もキャンペーンやってたから、あんまり……」


「ふむ」


 先生はタブレットを受け取ると、まだニコニコしたままレイアに手を差し出した。

 ああ、そうだった。

レイアはポケットから粉々になった脳波受信機の残骸を取り出し、先生の手のひらに乗せた。

 強力な脳波衝撃(サイコ・ショック)を受けて、内部から破壊された精密機器だ。


「これ、直すの高いよね?」


 大袈裟に胸を痛める仕草をしたので、レイアは恐る恐る聞いた。


 ナツ先生は細い目を三日月のように曲げ、身を屈めてレイアの耳の中をペンライトで照らした。


「バカだなぁ。機械より、レイアの耳の方が大事に決まってるだろ」


 22世紀の大人たちは何でも脳波デバイスで済ませるが、ナツ先生は何でも自分の手でやるアナログ派だ。  器用な指先には作業だこがあり、レイアの耳に触れると少しこそばゆい。


 そんなナツ先生の教育方針のおかげで、家には脳波コントロール家電が一つもない。  だから脳力ゼロのレイアでも、家の中では不自由を感じずに済んでいる。


 もっともLKに言わせれば、ナツ先生は単に家電を買う金がなく、全ての金を儲からない塾につぎ込んでいるだけらしいが。


「私は平気だよ」と、レイアは言った。


「うん? 平気? LKがいなかったら、今頃集中治療室だったかもしれないのにな」


 レイアはLKの閉ざされたドアをちらりと見た。 「LK、全部喋ったの?」


「ああ。あいつの脳波、震えてたよ。泣きながら『レイアがわかってくれない、可哀想な僕、ぴえん』ってね。レイア、彼に厳しすぎないかい?」


「ぴえん」だなんて、あのLKが言うわけないし、そんな顔をするわけもない。


「わかってるよ。もしあの時、LKが私の隣にいたら、私のために弾丸を受け止めたのは、あの店員さんじゃなくてLKだったってことくらい」


「……そうか」


「でもね」レイアはナツ先生の目を真っ直ぐに見て言った。「必要ないよ。私の命は、誰かの命と引き換えにするほど価値があるものじゃない」


 少女の異常なまでの冷静さに、ナツ先生は眉をひそめた。


 脳力が低くて馬鹿にされても、孤児として同級生にハブられても、レイアは決して悲しんだり怒ったりしない。  自分自身のことに関心がないというか、世界全体に対してどこか無関心なのだ。


 自分の部屋に戻った。  この空間も彼女自身と同じように殺風景だ。白い壁にシンプルな家具、ベッドカバーさえ退屈なグレー。


 レイアはベッドに横たわり、蒼白い天井をしばらく見つめてから、布団を頭まで被った。


 LKが怒る理由が分からないわけじゃない。  今日起きたことが怖くないわけじゃない。  彼女がこんなに冷静で、まるで他人の人生を傍観しているかのように生きていられるのは……。


 レイアは知っているからだ。


 ここは夢の中だってこと。  そして、この夢からはいつでも覚めることができるってことを。

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