第8話|玄関に三つの足音
春の夕方の空気は、昼のあたたかさを少しだけ名残りに残しながら、夜の冷たさをポケットの内側で準備している感じがする。商店街のアーケードを抜けて、自宅のある通りに入ると、アスファルトの上に三つの足音が並んだ。
一つは、僕の足音。くたびれて、でもまだがんばっている白いスニーカーの音。ゴムの底が少し薄くなって、歩くたびに地面の凹凸を前より近くに感じる。
二つ目は、美咲の足音。ひもの結び目が柔らかくなった白いスニーカー。つま先でときどき地面を小さく蹴る癖は、高校生のときから変わっていない。乾いた「こん」という音が、ほんの少しだけリズムを跳ねさせる。
三つ目は、小さな足音。今日、初めて外で本格的にデビューした、ピカピカの白いスニーカー。ゴムはまだ固く、紐は新品特有の頼りなさで、輪がきゅっと持ち上がっている。
「ただいまー! 足がおなかすいたー!」
いちばん小さい足音の持ち主が、そう叫びながら前を歩く。名前は「栞」。本に挟む栞と同じ字。ページとページのあいだをそっとつないでくれるしるしみたいに、この子とこれからの日々も静かにつながっていきますように、って、ふたりで時間をかけて選んだ名前だ。まだ幼稚園の年長で、白いスニーカーのサイズは、僕の手のひらより少し大きいくらいだ。
「足がおなかすいた、は新しい表現ですね、研究員」
美咲が言う。
「本日の鳥居研究所のテーマ、『足とおなかの相関関係』」
「ごはんが足りないと、足が“もっと歩きたい”って言ってるの」
栞が振り向きもせずに、えへへ、と笑う。笑うとき少しうつむく癖は、どこから引き継いだんだろう。
「じゃあ、帰ったらちゃんと晩ごはん食べて、足のごきげん取らないと」
「相川メモ工房としても、重要データです」
「ごはんのメモ?」
「そう。『今日の足音とごはんの関係』」
家の前の小さな坂道には、夕方の光が斜めに差し込んでいる。アパートの壁に沿って伸びる影は、三本分。大人二本と、少し跳ねた一本。栞はその影を踏み台にして遊ぶように、ぴょん、ぴょん、と跳ねている。新しい白いスニーカーのつま先に、今日の公園でつけた土の点が、もういくつか付いていた。
「ねえ、ねえ、もう一回だけジャンプしていい?」
「玄関前で一回だけ」
「やった!」
栞は玄関前のコンクリートの上で思いきりジャンプして、どん、と小さな音を落とした。白いスニーカーが宙に浮いた一瞬、夕日の色を裏側にすくって、そのまま地面に戻す。
「はい、終了」
美咲が笑って、玄関のドアノブに手をかける。
「鳥居研究所、本日の屋外実験はこれにて終了です」
「いえーい。中でつづき!」
鍵を回す音は、何度聞いても安心する音だ。カチャリ、という短い音のあと、ドアが少し重めに開く。中から、玄関の匂いが顔を出す。ゴムと木と、洗剤の残り香と、少しだけ湿った空気。
「ただいまー!」
栞が先に声を中へ投げる。誰もいないはずなのに、「おかえり」が返ってきそうな気がするのは、たぶんこの家に染みついた、人の出入りの回数のせいだろう。
まず、栞が上がり框に足をかける。新品の白いスニーカーが、玄関の段差の端っこで小さくきしんだ。僕と美咲も続いて、玄関マットのところで足を止める。三人分の影が、今度は室内の明かりに順応して、少し柔らかくなる。
「はい、靴、そろえタイム」
「はいっ」
栞は自分のスニーカーのかかとを、ちょいちょいと手で押して脱いだ。紐をきちんとほどく、という段階は、まだ「やる気が出たり出なかったりする」年頃らしい。今日は「やる気がまあまあ出た」らしく、片方だけ丁寧にほどいてから脱いでいる。
「かかと踏まないの、よくできました」
美咲が頭をぽんぽん、と撫でる。
「その調子で、紐も全部ほどける日が来ると、研究員ランクが上がる」
「らんく?」
「そう。今は、鳥居研究所の“見習い研究員”だから」
「みならい……」
栞は少し考える顔をしてから、
「じゃあ、わたし、今日から“くつ担当”の研究員になる!」
「頼もしい」
僕は笑いながら、しゃがんで自分の靴を脱ぐ。くたびれた白いスニーカーのかかとには、何度も足を出し入れした跡が残っている。紐は前より柔らかくなり、輪を作るとき、指の感覚でちょうどいい締め具合がわかる。
美咲のスニーカーも、同じように年季が入っている。布地の白は少しクリーム色に転んで、つま先の縫い目のところがやさしく丸くなっている。二足並ぶと、どちらも「がんばって歩いてきた」感じがする。
その横に、栞の新品の白いスニーカーを置く。真っ白で、まだしっかり角のあるつま先。ソールの溝も深くて、今日の公園の砂が少しだけ張りついている。
三つの白が、玄関のたたきに並んだ。くたびれた二足と、小さな新品の一足。夕方の光がドアのすき間から差し込んで、三つ分の白をまとめてやわらかく照らす。
「ねえねえ、おとうさんのくつ、ひもほどけてる」
栞が指さす。僕のスニーカーの片方の輪が、少しゆるんでいた。
「あ、本当だ。研究員、結んでもらえますか」
「まかせて!」
栞はちょこんとしゃがみ、ちいさな指で紐をつまむ。輪を作ろうとして、途中でこんがらがる。
「……あれ?」
「途中まで合ってるよ」
僕は隣にしゃがんで、ゆっくり紐をほどく。
「ほら、こうやって一回広げてから、左右の長さを揃えて……」
「そろえて?」
「うん。そこから輪っかを作って、くるっと回して、通して、引っ張る」
「くるっと、とうして、ぎゅー!」
ぎゅーのところだけやたら元気で、結び目が少しきつくなった。指先には、遠い日のひも結びの感触が、うっすら重なる。卒業式の朝、ひさしの下で結び直した、美咲のスニーカーのひも。あの日の「結ぶ」と今日の「結ぶ」が、同じ指の中を通っていく。
「できた!」
「ありがとう。今日の結びは、ほどけにくそうだ」
「ふふん。わたし、“ひも研究員”だからね」
「じゃあ、ひも研究員さん」
美咲が口をはさむ。
「おとうさんとおかあさんのくつも、ちゃんとそろってるか、最終チェックお願いします」
「りょうかい!」
栞は小さな真剣な顔で、三足の靴のつま先を揃えていく。少しだけズレたところをとん、と軽く蹴って調整する仕草が、なんだか誰かさんに似ていた。
「オーケーです!」
「ありがとうございます」
「鳥居研究所、本日の玄関整備、完了です」
「ばんごうふりわけは?」
「えっとね……」
栞は考えて、
「こっちがおとうさんの“がんばったくつ”で、こっちがおかあさんの“がんばったくつ”。で、これが、きょうデビューした“これからがんばるくつ”」
「ネーミングセンス、高いな」
僕は笑う。
「“がんばった”と“これからがんばる”が並んでる玄関、なかなかいい」
「ねえ、おとうさん」
栞が上がりかけて、ふと振り向いた。
「なんで、みんな白いくつなの?」
その質問は、いつか聞かれるだろうと思っていた。僕は少しだけ息を吸って、答えを選ぶ時間をもらう。
「うーん」
と、わざと考える顔をする。
「むかしね、おとうさんとおかあさんがまだ高校生だったころ、ほとんど毎日この色の靴で一緒に歩いてたんだよ」
「まいにち?」
「うん。雨の日も、夏の日も、冬の日も。白い靴で川のそばを歩いたり、学校の中庭に座ったり、商店街を通ったりして」
「いろんなところに行ったから、白いくつが、いちばん“ふつうで最高”って思うようになった」
美咲が言葉を継ぐ。
「だからね、栞とも、一緒に歩くときは白い靴、いいなって」
「ふつうで、さいこう」
栞が復唱する。小さな口から出たその言葉が、玄関の空気に新しく染み込んでいく。
「そう。特別すぎないけど、ちゃんとうれしいやつ」
僕は言う。
「たとえば、今日みたいな日」
「こうえんで、すべりだいだけした日?」
「そう。それだけのはずなのに、“だけ”って感じがしない日」
「うん」
栞は少しだけ考えるように目を上へ向けてから、
「わたしのくつも、これから“ふつうでさいこう”になってく?」
「なるよ」
美咲が即答する。
「今日土がついたとこも、今度雨ふったらきっと別の色になるし」
「泥んこ?」
「泥んこも立派な研究データ」
「やった!」
そんな会話をしながら、三人で廊下を歩く。リビングのドアを開けると、朝出かける前に開けたままのカーテンから、オレンジ色の光が床に落ちている。ソファの上には、脱ぎかけのパーカーが一枚。テーブルの上には、午前中に飲みかけたコーヒーカップと、小さなコップ。コップの側面には、ぶどうジュースのうっすらとした痕跡。
「おとうさーん」
「ん」
「“あしおとプリン”のレポートは?」
「“足音プリン”?」
聞き慣れない単語に首をかしげると、美咲が吹き出した。
「さっき、帰り道で話してたじゃん」
と、彼女は笑いながら言う。
「栞が、『今日はいっぱい歩いたから、プリン食べてもいい日』って」
「ああ、それか」
「だから“足音プリン”。歩数換算おやつ」
「じゃあ、研究発表します」
僕はソファに腰をおろして、わざとらしく咳払いをする。
「本日の足音合計は……」
「ごうけいは!」
栞が真似をして、隣にぴたりと座る。
「“川沿いジャンプ×二十回+すべり台階段往復×八回+帰り道の影ふみ×多数”なので」
「なので?」
「プリン一個、妥当」
「やったーーーー!」
栞はソファから飛び降りて、キッチンのほうへ走っていく。
「おとうさん、“きいろいプリン”ね!」
「了解。きいろいプリン」
「きいろいプリンってなに」
美咲が笑う。
「服の色じゃない?」
「たぶん、スーパーでよく買うカスタードのやつ」
「“ふつうで最高”なやつだ」
「そうそう」
僕はキッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。中には、昨日の夜の残りのカレーと、半分になったきゅうりと、タッパーに入った切り干し大根と、その横に整列したプリンが三個。ラベルの黄色が、栞の言う「きいろいプリン」だ。
「鳥居研究所、プリン在庫三」
「相川メモ工房、メモ済み在庫三」
「在庫情報が二重管理されている」
そんなことを言いながら一つ取り出すと、足もとにちょん、という小さな衝撃があった。見下ろすと、栞がつま先で僕の足首を軽く蹴っている。
「それ、おとうさんのじゃなくて、わたしのだからね」
「これは“足音プリン”なので、研究員へ支給です」
「はーい」
つま先で軽く蹴る癖。たぶん、それもどこかから引き継いでいる。玄関に並んでいるくつと同じように。
プリンのフィルムをはがすときの、ぺりぺり、という音は、いつ聞いても小さなイベント感がある。スプーンでひとすくいすくって、栞の前に差し出すと、彼女は目をきらきらさせて口を開ける。
「どう?」
「……さいこう」
「出ました、“さいこう”」
美咲が笑う。
「ふつうで、さいこう?」
「うん!」
プリンの表面は、夕方の光を少しだけ反射している。特別な記念日でも、ごちそうの日でもない、ただの春の夕方。だけど、ここにはちゃんと「さいこう」がある。
テーブルの端っこには、小さなノートが一冊置いてある。栞が最近「研究ノート」と呼んでいるもの。表紙には、太い字で「とりいけんきゅうじょ」と書いてあって、ところどころ文字がはみ出している。隣には、僕のノート。相川メモ工房の最新巻。角は少し丸くなって、栞代わりのカードが何枚か挟まっている。
「きょうのノート、なに書こうかなあ」
栞がプリンを半分食べたところで言う。
「“こうえんのあしあと”とかどう?」
美咲が提案する。
「すべり台でおしりがあったかくなった話とか」
「うん……でも、くつのことも書きたい」
「白いスニーカー、デビューの日」
「そう。“しろいくつ、きょうから”ってかく」
僕は自分のノートを開いて、「玄関・三足」とだけ仮タイトルを書いておく。文字は相変わらず小さくて、句点はつけない。ページの端には、前のページからはみ出したしおりがのぞいている。あの日もらった、小さな窓のしおり。色は少しだけ紙焼けしているけれど、窓枠の印刷はまだくっきりしている。
「ねえ、悠人」
美咲が、マグカップを両手で包みながら僕を見る。
「なに」
「いま、ふっと思ったんだけどさ」
彼女は少しだけうつむいて、目じりから先に笑う。あの癖も、変わらない。
「玄関に三つ足音があるの、いいね」
「うん」
「二人で歩いてたときも好きだったけど、今の三つの足音の感じ、すごく“しっくり”くる」
「わかる」
僕は頷く。
「音の厚みが、ちょうどいい」
「うん。これからもし、足音が増えたり減ったりしてもさ」
美咲はタグを指先でいじりながら、少しだけ視線を上げる。
「そのときどきの足音が“しっくりくるね”って言えたら、いいなって思う」
「それはたしかに」
「いまは、この三つの重なり方が、ちゃんと好き」
「ふつうで最高」
気づいたら、その言葉が口から出ていた。
言った瞬間、美咲が「ふふ」と笑う。栞も、意味が全部わかっているわけではないだろうけど、つられて笑った。
「でた、“ふつうで最高”」
「タグの言葉」
美咲が、ポケットから鍵束を取り出す。あの日プレゼントした小さなタグは、今でもそのまま鍵についている。「ふつうで最高」の刻印は、角のところに細かい傷を増やしながらも、ちゃんと読める。
「ねえ、これってさ」
彼女はタグを指でなぞりながら言う。
「高校のときに聞いたら、すごく遠くの未来の言葉みたいに聞こえただろうなって」
「たしかに」
「でも、実際こうやって、晩ごはん前にプリン食べて、玄関でくつそろえて、プリンのスプーン争奪戦してる今にぴったりなの、なんか面白い」
「“未来の普通”だったやつが、“今の普通”になった感じ」
「うん」
栞が、スプーンを持ったまま首をかしげる。
「“ふつうでさいこう”って、なに?」
「えーとね」
美咲が少し考えてから、
「たとえば、“プリンがおいしいね”って言える日が何回も続くことかな」
「きょうだけじゃなくて?」
「そう。きょうも、あしたも、あさっても。“あ、今日もおいしいね”って言えるの」
「それ、さいこうだね」
「でしょ?」
栞は満足そうに頷き、プリンの最後の一口を大切そうに食べた。スプーンの銀色が、夕日の残りをひときれすくう。
カーテンの隙間から、外の空が少しずつ群青色に変わっていくのが見える。窓を少しだけ開けると、春の夜の手前の空気が入ってきた。どこかの家の晩ごはんの匂いと、遠くの車の音と、わずかな花の匂い。
「さて」
僕は立ち上がる。
「そろそろお風呂の準備をいたしましょうか、研究所のみなさま」
「はいはーい」
栞が手を挙げる。
「きょうは“あわの高さ”の研究する!」
「それは重要だ」
「“あわの高さ”と“からだのせのび”の関係?」
「おとうさん、メモよろしく」
「相川メモ工房、出動します」
それぞれが、それぞれの小さな仕事に向かって動き出す。美咲は洗濯機のタイマーをセットし、栞はお気に入りのアヒルのおもちゃを風呂場の前まで運び、僕はバスタオルを準備する。
その途中で、ふと玄関を振り返る。ドアの隙間から漏れる、かすかな街灯の光が、三足の白いスニーカーをぼんやり照らしていた。くたびれた二足と、小さな新品の一足。今日歩いてきた道のりが、そのまま形を持って並んでいるみたいだ。
高校のとき、あの坂道で見た白い靴の並びと、今日の並びは、もちろん同じじゃない。足のサイズも、歩いた場所も、時間も違う。でも、どちらもちゃんと「いま」の証拠だ。違う「いま」が、同じ白いスニーカーに入っている。
僕はポケットからスマホを取り出し、メモのアプリを開く。新しいページに、一行だけ打ち込む。句点は、やっぱりつけない。
――玄関に三つの足音 くたびれた白と はじめての白
保存のボタンを押して画面を閉じると、リビングのほうから「おとうさーん、おふろー!」という声が飛んできた。
「はいはい、ただいま」
返事をしながら、もう一度だけ玄関のほうを振り返る。
白いスニーカーたちは何も言わない。けれど、その沈黙ごと、ここにある生活の音に混ざっている。足音と、笑い声と、水の音と、プリンのスプーンの音。その全部をひっくるめて、僕は心の中でそっと呼ぶ。
――「ふつうで最高」
そう思いながら、僕は白いスニーカーの紐をしっかり結んだ足の感触を胸のどこかで確かめて、風呂場の明かりのほうへ一歩踏み出した。
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