第10話 迷子スキル
日が完全に沈むと、海沿いの無人駅は一気に闇と静寂に包まれた。
さっきまで黄金色に輝いていた海は、今は黒いインクを流したように重く、ただザザァン、ザザァンという波音だけが不気味に響いている。
気温が下がり、Tシャツの上に羽織ったウィンドブレーカーのファスナーを首元まで上げた。
「……さて、どうするか」
感傷に浸る時間は終わりだ。現実的な問題が目の前にある。
今夜の寝床だ。
この駅周辺にはコンビニの明かりすらない。スマホの地図アプリを広げ、現在地周辺を検索する。
赤いピンが一つだけ、徒歩15分ほどの場所に落ちた。
『ゲストハウス うみねこ』
「ゲストハウス……?」
聞き慣れない単語だ。民宿みたいなものだろうか。
レビューを見てみる。「アットホームな雰囲気」「旅人同士の交流が楽しい」「オーナーの手料理が最高」。
俺のコミュニケーション能力(CHA)の低さでは、即死級の難易度かもしれない。
しかし、他に近い宿はない。野宿をする装備もスキルもない以上、選択肢は一つしかなかった。
覚悟を決めて電話アイコンをタップする。数回のコールの後、明るい女性の声が出た。
「はいはーい! ゲストハウスうみねこです!」
「あ、あの、今日これから泊まりたいんですけど……空いてますか?」
「お一人様? ドミトリーなら空いてるよ! 今どこ? 駅? じゃあ気をつけて来てねー!」
こちらの返事を待たずに通話が切れた。勢いに押され、言われるがままに予約してしまった。
ところで、「ドミトリー」って何だ?
◆
スマートフォンのライトを頼りに、街灯の少ない夜道を歩く。
民家の明かりがぽつりぽつりと見えるだけの、心細い道中。
背後の闇からモンスターがエンカウントしてもおかしくない雰囲気だ。
15分ほど歩くと、坂の上に温かいオレンジ色の明かりが見えた。
古民家を改装したような建物。看板には手書きの可愛らしい猫のイラストが描かれている。
玄関の引き戸を開ける。
「こんばんは……」
「いらっしゃい! 迷わなかった?」
出迎えてくれたのは、30代くらいのサバサバした雰囲気の女性オーナーだった。エプロン姿が板についている。
「ようこそ『うみねこ』へ! 今日は賑やかだよー」
案内されたのは、八畳ほどの和室に二段ベッドが四つ、強引に押し込まれた部屋だった。
「ここが男性ドミトリーね。今日の空きはここ、上段使って」
「え、あ、はい」
相部屋。それがドミトリーの意味か。
ホテルという個室しか知らなかった俺には衝撃だった。プライベート空間は、このベッドの上だけ。カーテン一枚隔てた向こうには、赤の他人たちが寝ているのだ。
俺のテリトリー意識が警報を鳴らしている。だが、一泊3000円という安さには代えられない。
荷物を置き、共有のリビングへ向かう。
そこはまさに「異世界」だった。
大きな木のテーブルを囲んで、数人の男女が酒を飲んでいる。
バックパッカーらしき大柄な外国人、日本一周中の自転車乗り、一人旅の女性。
「お、新人さん? こっち座りなよ!」
すでに出来上がっている男性客が、赤ら顔で手招きをする。
「あ、いえ……俺、疲れてるんで……」
俺は引きつった愛想笑いを浮かべ、逃げるように手を振った。
「コミュ力不足でイベント発生ならず……」
心の中で言い訳をする。今の俺のレベルでは、この高難易度パーティに混ざるのは無理だ。精神力(MP)が削られる未来しか見えない。
逃げるようにシャワーを浴び、駅の自販機で買っておいたパンをかじり、早々に自分のベッドへと潜り込んだ。
◆
ベッドの遮光カーテンを閉め切る。
狭い空間だが、ここだけが唯一の「
布団からは、太陽と洗濯糊のいい匂いがした。
薄いカーテンの向こうから、リビングの笑い声や、同室の誰かが荷物を整理するジッパーの音が聞こえてくる。
ホテルの一人部屋とは違う、他人の気配が濃厚な夜。
本来なら不快に感じるはずのその雑音が、不思議と嫌ではなかった。
孤独ではない、という安心感がそこにはあった。
「みんな、何のために旅してるんだろう」
天井の板目を見上げながら、そんな疑問を抱く。
リビングにいた彼らは楽しそうだった。目的があり、意志があり、人生を謳歌しているように見えた。
それに比べて俺は、逃げてきただけだ。
まだ、スタートラインにすら立っていないのかもしれない。
スマホで明日の天気を調べる。晴れ。
そういえば、チェックインの時にオーナーが言っていた。
『明日の朝、ここから歩いて行ける岬の展望台からの日の出が最高だよ』
早起きしてみようか。
せっかくここまで来たんだ。何か一つでも、いいものを見て帰りたい。
俺はアラームを4時30分にセットし、スマホを枕の下に滑り込ませた。
リビングの笑い声は、子守唄のように遠く聞こえ始めていた。
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