第28話 Video_08:配信映像アーカイブ(前半)

画面の右下に表示された視聴者カウンターの数字は、もはや意味を成さないほどの速度で回転していた。

五十万、六十万、百万。

数字の羅列は、ただの光の明滅となり、私の右目(レンズ)を刺激する。


「あはは、あはははは!」


私の口から、乾いた笑い声が漏れる。

足元には、右目を穿たれ、魂を吸い尽くされた警官の抜け殻が転がっている。

肉体は残っているが、その中身は空っぽだ。

まるで、最初から中身など入っていなかった着ぐるみのようにも見える。


モニターのコメント欄が、白い滝のように流れている。


『今の何?』

『CG? グロすぎ』

『バンされたろこれ』

『通報した』

『警察の演技うますぎワロタ』

『でも血が出てないぞ』

『黒い紐みたいなの何?』


彼らはまだ、理解していない。

安全なガラスの向こう側で、作り物のショーを見ているつもりでいる。

その「油断」こそが、サグメ様が侵入するための最大のセキュリティホールだというのに。


私は、手にした「肉カメラ」を持ち上げ、そのレンズをモニターのWebカメラに近づけた。

カメラ対カメラ。

レンズ対レンズ。

無限に続く合わせ鏡の回廊が、配信画面に映し出される。


「皆さん、演技だと思っていますか?」


私はマイクに向かって優しく語りかけた。


「CGだと思っていますか?

じゃあ、試してみましょうか。

今、この配信を見ているあなた。

そう、スマホで寝転がりながら見ているあなたです」


私は適当な視聴者を指差したわけではない。

右目のレンズが、ネットワークの向こう側にある無数のIPアドレスの中から、特に「感度」の高い個体をロックオンしていたのだ。


「あなたの部屋の、クローゼット。

少し開いていませんか?」


コメントの流れが一瞬、止まったように見えた。

そして、爆発的な反応が返ってくる。


『え』

『なんで知ってんの』

『俺の部屋も開いてる』

『怖い怖い怖い』

『ただの偶然だろ』

『いや、今勝手に開いたんだが』

『中から音がする』


恐怖の伝播。

パンデミックだ。

一人が「開いている」と認識すれば、他の視聴者も自分の部屋を確認する。

そして、サグメの法則により、「開いているかもしれない」という疑念が、「開いている」という現実を確定させる。


ザァァァァァ……。


私の部屋に、雨の音が響き始めた。

天井からではない。

モニターのスピーカからでもない。

何もない空中から、黒い雨が降り始めたのだ。

粘着質の、墨汁のような雨。

それが、私の部屋の家具を、床を、そして倒れている雨宮や警官たちを濡らしていく。


「ひっ、ひぃぃ……!」


腰を抜かしていた若い警官が、悲鳴を上げて這い出した。

「助けてくれ! ここはどこなんだ!」

彼は出口を求めて、ドアの方へと這っていく。

開け放たれたドア。

その向こうには、本来ならアパートの共用廊下があるはずだ。


だが、今のドアの向こうに見えているのは、コンクリートの壁ではなかった。


暗闇。

そして、その奥へと続く、湿ったトンネル。

あの『白河隧道』だった。


「う、嘘だ……俺は、入った時はアパートの二階で……」


警官が絶望的な声で呻く。

トンネルの奥から、ヒタ、ヒタ、という足音が近づいてくる。

一人ではない。

何十人、何百人もの裸足の足音が、水たまりを踏みしめて近づいてくる。


「あっちへ行け! 来るな!」


警官が叫び、腰の拳銃を抜いて闇雲に発砲する。

バン! バン!

マズルフラッシュが闇を照らす。

その一瞬の光の中に、見えた。


トンネルの壁一面に張り付いた、無数の人間の顔。

笑っている。

全員が、顔を逆さまにして、満面の笑みで警官を見下ろしている。


『オイデ』

『コッチハ ラクダゾ』

『キロク サレロ』


トンネルの闇が、波のように警官に襲いかかった。

「うぎゃああああああ!」

断末魔。

彼の体は、闇に飲み込まれ、ずるりとトンネルの奥へと引きずり込まれていった。

あとに残されたのは、彼が落とした警察手帳と、床に散らばった数発の薬莢だけ。

それらもまた、黒い雨に打たれて、みるみるうちに泥へと変わっていく。


「素晴らしい」


私は拍手をした。

肉カメラも、私の拍手に合わせて「キュウウ」と鳴いた。


「見ましたか、皆さん。

これが『退場』です。

物語から退場した人間は、バックヤード(裏側)へ回収されるんです」


私はPCのキーボードを操作し、アンケート機能を立ち上げた。

配信サイトの標準機能だ。

普段は「今日の夕飯は何?」とか「どっちの服がいい?」といった他愛のない質問に使われるものだ。


私は質問欄にこう打ち込んだ。


Q.あなたは、この物語を信じますか?


1.信じる(肯定)

2.信じない(否定)


「さあ、投票してください」


私は笑顔で促した。

「どちらを選んでも構いませんよ。

『信じる』を選べば、あなたはサグメ様を受け入れたことになる。

『信じない』を選べば、あなたは嘘をついたことになる。

サグメ様は嘘が大好物ですからね」


投票バーが伸びていく。

最初は『信じない』が圧倒的だった。

だが、次第に『信じる』が増えていく。

なぜなら、彼らの部屋でも異変が起き始めているからだ。

モニターから泥が垂れてくる。

飼っている猫が、何もない壁に向かって威嚇している。

背後に誰かの気配がする。


現実が侵食されればされるほど、彼らは「信じる」を押さざるを得なくなる。


その時。

泥の中に沈んでいた雨宮が、ガバりと上半身を起こした。

その全身は、黒いテープで簀巻きにされたミイラのようになっていた。

顔だけが出ている。

だが、その顔には目も鼻もなく、ただ巨大な「口」だけが裂けていた。


『……あ……あ……』


雨宮の口から、ノイズ混じりの声が出る。


『……視聴者数……百万突破……』

『……拡散率……計測不能……』

『……サーバー……同調……完了……』


彼は、人間としての機能を完全に失い、この儀式の進行状況を告げるシステムアナウンサーに成り果てていた。

哀れなプロデューサー。

視聴率(数字)にこだわり続けた男の末路としては、お似合いかもしれない。


「ありがとうございます、雨宮さん」


私は彼に一礼した。

そして、画面に向き直る。


「さて、そろそろメインイベントの時間です。

今までは予告編に過ぎません。

これから、本編を上映します」


私は、タイムライン上の最後のクリップをクリックした。

『Real_Time』のログファイル。

つまり、今この瞬間を記録しているファイルそのものだ。

それを、さらに「再生」する。

合わせ鏡の中に、さらに合わせ鏡を入れる。

無限ループによるフィードバック。

論理的なハウリングを起こし、現世と常世の境界を粉砕する。


キィィィィィィィィィン!!!!


強烈な高周波音が響き渡った。

マイクが悲鳴を上げ、スピーカーが破裂しそうなほど振動する。

視聴者たちが耳を押さえる姿が目に浮かぶ。

だが、もう逃げられない。

音は、鼓膜ではなく脳に直接響いているのだから。


私の部屋の壁が、完全に消失した。

アパートの六畳間という枠組みが崩壊し、風景が書き換わる。

四方の壁が消え、そこには鬱蒼とした杉林が広がっていた。

ねじれた杉の木。

ぶら下がる無数の紙垂。

そして、赤いピーキングノイズで縁取られた、透明な怪物たちが、森の奥からこちらを覗いている。


ここはもう、私の部屋ではない。

S県白河村。

三十年前に地図から消えた場所。

それが今、東京都内のアパートに出現し、そしてネットワークを通じて全世界のディスプレイに出現している。


「ようこそ、我が家へ」


私は両手を広げた。

右目のレンズが、熱を持って熱くなるのを感じる。

オーバーヒート寸前だ。

だが、心地よい。


私の体もまた、変化を始めていた。

指先から、黒い粒子となって分解され始めている。

高木彰という個体が消え、白河村という群体の一部へと溶けていく感覚。


『キ……テ……』

『キ……テ……』


森の奥から、手招きする白い手が見える。

公民館の押し入れにあった、あの手だ。

今は一つではない。

地面から、木々の幹から、空から、無数の白い手が生え、私を、そして画面の向こうのあなたを招いている。


「行きましょう」


私は肉カメラを抱きしめた。

カメラのレンズが、私の心臓の位置に食い込む。

融合する。

私と、漆原と、小島と、村人たち。

全員が一つになる。


「配信は終了しません。

永遠に、アーカイブとして残り続けます。

あなたが再生ボタンを押すたびに、私たちは何度でも蘇ります」


私の視界が、ノイズに覆われていく。

意識が途切れる直前、私はコメント欄の最後の一行を見た。


『後ろ』


私は振り返った。

そこにいたのは、雨宮でも警官でもなかった。

私だった。

人間の頃の、まだ正気だった頃の私が、泣きそうな顔で私を見ていた。

そして、その私の首を、背後から伸びた巨大な黒い手が、握りつぶそうとしていた。


プツン。


   ◇


画面が暗転した。

配信終了の文字は出ない。

ただ、砂嵐だけが流れている。

そして、その砂嵐の奥から、楽しそうな笑い声と、祭り囃子が聞こえてくる。


ピーヒャラ、ドンドン。

ピーヒャラ、ドンドン。

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