第9話 Video_02:廃村探索_公民館.mp4
歪んだ部屋の中で、私はマウスをクリックした。
平衡感覚が狂っているせいで、カーソルを合わせるだけの動作に数秒を要した。
本棚の側板はS字に曲がり、天井の隅は溶けたように垂れ下がっている。
だが、モニターの中だけが、唯一の「正気」であるかのように長方形を保っていた。
皮肉な話だ。狂気を記録したデータこそが、今の私にとっての基準点になっている。
再生プレイヤーが起動する。
タイムコードは2023年8月11日、15時20分。
村の入り口を通過してから約一時間後の映像だ。
◇
<動画再生開始>
ザッ、ザッ、ザッ。
乾いた土を踏みしめる足音。
カメラは、木造の巨大な建物を捉えていた。
入母屋造りの立派な屋根だが、瓦の半分は剥がれ落ち、壁の漆喰は黒く変色している。
入り口の上には、右から左へ『館民公村河白』と書かれた木の看板が掲げられていた。
「ここが、例の書き込みにあった公民館ですね」
小島の声だ。
息が荒い。山道を歩いた疲れだけではない、緊張による浅い呼吸だ。
「ああ。村の中心部だ。役場機能もここにあったはずだ」
漆原が先に立ち、引き戸に手を掛ける。
鍵は掛かっていないのか、ガタガタという音と共に戸が開いた。
すさまじい埃が舞い、夕日が差し込んで光の筋を作る。
「うわ、黴臭い」
「入るぞ。足元に気をつけろ。床が抜けてるかもしれん」
二人は建物の中へ足を踏み入れた。
土間には、三十年分の埃が積もっている。
壁には『火の用心』や『納税は国民の義務』といった昭和のスローガンポスターが貼られたままだが、紙魚に食われて穴だらけになっている。
カメラが廊下を進む。
ギシッ、ミシッ、と床板が悲鳴を上げる。
「漆原さん、あれ」
小島がカメラを左手の壁に向けた。
そこには、歴代の村長と思われる肖像写真が飾られていた。
十枚ほどの額縁が、鴨居の上に一列に並んでいる。
「……趣味が悪いな」
漆原が呟く。
モノクロの威厳ある写真。
だが、すべての写真が「裏返し」に入れられていた。
写真の裏紙の白地だけが、ガラス越しに見えている。
額縁ごと裏返っているのではない。一度額縁を開け、中の写真を裏向きに入れ直して、再び封をしたのだ。
「誰の顔も見たくない、あるいは、誰にも顔を見られたくない。そういう意思を感じるな」
「さっきの地蔵と同じですよ。……なんか、視線を感じませんか? この裏紙の向こうから、見られているような」
「想像力豊かなのはいいが、ビビるなよ。行くぞ」
漆原は構わず奥へ進む。
突き当たりにある、「大広間」と書かれた札の掛かった部屋。
襖は半開きになっている。
漆原が襖を蹴り開けた。
カメラが部屋の全貌を捉える。
広さ三十畳ほどの畳敷きの部屋。
そして、そこにあったのは、異様な光景だった。
「なんですか、これ……」
小島の声が裏返る。
部屋の壁三面に、木製の棚が作り付けられている。
その棚に、びっしりと黒い物体が詰まっていた。
ビデオテープだ。
VHSテープが、背表紙も何も書かれないまま、何百、何千本と並んでいる。
さらに、棚に入り切らなかった分が、畳の上に小山を築いていた。
「掲示板の情報通りだ」
漆原がテープの山に近づき、一本を手に取る。
埃を払い、ラベルを確認する。
手書きで、日付だけが記されていた。
『1989.4.20』
「八九年……平成元年か。村が廃村になる六年前だ」
彼は別のテープを拾う。
『1975.8.15』
さらに別の一本。
『1993.2.13』
「廃村の前日まであるな」
漆原はテープを元の場所に戻し、部屋の隅にある事務机に目を留めた。
錆びたスチール机。
その上に、一冊の分厚い大学ノートが開かれたまま放置されている。
カメラが近寄る。
ノートの表紙には、墨文字で『白河村・生存者名簿』と書かれていた。
「生存者名簿?」
漆原が眉をひそめる。
「普通、こういうのは『住民台帳』とか『戸籍』とか書くだろ。災害時じゃあるまいし、なんで『生存者』なんだ」
漆原はノートを覗き込む。
小島が照明ライトを当て、ページを照らす。
そこには、村人の氏名と、生年月日、そして「処置」と書かれた欄があった。
『山田 太郎 昭和二十年生 処置:済』
『山田 花子 昭和二十二年生 処置:済』
『鈴木 一郎 昭和四十年生 処置:未(逃亡)』
ページをめくる。
『済』の文字が延々と続く。
筆跡は震えており、墨が滲んでいる場所もある。
そして、最後のページ。
『漆原 サヨ 昭和十年生 処置:献上』
カメラが、その一行でピタリと止まった。
漆原の手も止まった。
「……漆原、さん?」
小島が恐る恐る声を掛ける。
漆原京介。珍しい名字ではないが、ありふれてもいない。
この村に、彼と同じ姓の人間がいた。
「……親父の実家は、ここから山を二つ越えた隣町だ。関係ないとは言い切れないがな」
漆原の声は冷静さを装っていたが、指先が微かに震えているのがアップで映り込んだ。
「それより、ここを見ろ」
彼が指差したのは、名簿のさらに下の余白部分だった。
そこに、殴り書きのような文字で、こう記されていた。
『記録係、到着せず。儀式を延期することはできない。我々は自らを記録媒体とする。肉体をテープとし、血液を磁気として、サグメ様の声を焼き付ける』
「……狂ってる」
小島が呻くように言った。
その時だった。
ガタンッ!
部屋の奥、テープの山が崩れる音がした。
カメラが急旋回する。
照明ライトの光が、闇を切り裂く。
テープの山が崩れ、黒いカセットが雪崩のように床に散らばっている。
その奥。
押し入れの襖が、少しだけ開いていた。
そこから、白い何かが覗いていた。
「誰だ!」
漆原が叫ぶ。
カメラがズームする。
白いもの。
それは、人の手だった。
青白く、血の気の失せた手首が、襖の隙間から垂れ下がっている。
「死体……?」
小島が後ずさる。
だが、次の瞬間、その手が動いた。
手招きをしたのだ。
おいでおいで、とゆっくり指を折り曲げる。
「小島、撮れ! 逃げるな!」
漆原が駆け寄ろうとする。
しかし、小島はパニックに陥ったのか、カメラを激しく振って背を向けた。
「無理です! 生きてるわけない! 三十年前ですよ!?」
「待て!」
映像が激しく乱れる。
小島が走り出したのだ。
廊下を走る足音と、荒い息遣い。
背後から、漆原の怒号と、そしてもう一つ、別の音が聞こえた。
カラカラカラカラ……
ビデオテープのリールが回るような、乾いた回転音が、無数の重なりとなって追いかけてくる。
カメラは出口の光を求めて疾走し、土間で転倒したところで映像が途切れた。
◇
再生終了。
黒い画面に戻ると同時に、私の部屋の歪みが、また一段階進んだ気がした。
キーボードを打つ手が重い。重力が強くなっているのか、私の体が鉛になったのか。
『漆原サヨ』
献上。
漆原京介は、ただの興味本位でこの村に来たのではなかったのかもしれない。
彼自身が、この村に呼ばれた「記録係」の代わりだったのではないか?
名簿にあった『記録係、到着せず』という記述。
三十年越しに、その役目が果たされようとしている。
そして、私もまた。
このデータを編集することで、新たな記録係に仕立て上げられている。
「……ふざけるな」
私は震える声で吐き捨てた。
誰かのシナリオ通りに動くのは御免だ。
だが、続きを見なければ、あの手招きしていた「何か」が、私の部屋の押し入れからも出てきそうな気がした。
確認しなければならない。
あの手招きの主が何だったのか。
私は次のファイルを探した。
リストによれば、次は『Interview_02:元住人・老婆へのインタビュー』。
施設にいる元村人の証言だ。
そこには、あの「サグメ様」の正体についてのヒントがあるはずだ。
私は逃げるように、動画ファイルから音声ファイルへと切り替えた。
せめて映像でなければ、この吐き気も少しはマシになるはずだ。
そう信じて。
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