主婦・イン・ジ・アフターパンデミック
陽澄すずめ
EP1 AFTER-PANDEMIC
自分が主婦で良かったと、これほど思ったことはありませんでした。
私の一日は、ロビーに起こされるところから始まります。
ロビーは首輪に搭載されたソーラーパネルの電力で動くロボット犬です。彼は毎朝午前六時きっかりに、バウ!とひと吠えして私のベッドのシーツを引っ張ってくれます。おかげで寝坊することはありません。
浄水装置に汲み置きしていた水で顔を洗って歯磨きしたら、ロビーがリードを持ってきます。
だから今日もいつも通り、すぐに着替えを済ませて朝の散歩に出かけるのです。
夜が明けて間もない空に雲はなく、冷え冷えとした薄い色の月だけが私たちを見下ろしていました。
ひび割れた路面の上を、色褪せた一枚の木の葉が転がっていきます。
目の前に広がる景色の中に人影はありません。街はひっそりとして、誰一人とて朝の訪れに気付いていないかのようです。
「バウッ!」
「ああ、ごめんなさいロビー。お散歩だったわね」
ロビーにリードを引かれ、思わず止めてしまった歩みを進めます。
――どんな時でも平常心を忘れずに。いつも通りの生活をしよう。
舗道のわきでは、勝手に背を伸ばしていた雑草が枯れ始めていました。
一区画隣のブラウンさんのおうちは、あれほど見事だったお庭が荒れ放題になっています。
その斜向かいの大きなおうちの壁は壊されて崩れたまま。
よその家の中をうっかり覗いてしまわないよう、私はロビーに導かれるまま先を急ぎます。
そう、この街にはもう、朝の訪れを喜ぶ人はいません。
猛威を振るった致死性ウイルスによって、みんなみんな、命を落としてしまったからです。
それでも変わらない散歩コースを、私たちは歩きます。プログラム通りのロビーの行動パターンは、私に変わらないルーティンをもたらしてくれます。
二十一世紀初めごろの映画で、似たような状況のお話がありました。あの映画の中でパンデミックを生き残った男性も、犬を連れていたと記憶しています。
「ただいま」
「バウッ」
誰もいない家に、私たちの声が響きます。
「バウッ! バウッ!」
「そうね、朝ごはんにしなくちゃね」
散歩が終われば、朝食の時間です。
ロビーにはロボット犬用フードを出し、ダイニングテーブルには主人と娘のための缶詰を並べます。
本当は前みたいにオープンサンドやスクランブルエッグを用意できたら良いのですが、生鮮食料品はもう手に入りません。封を切らないままの缶詰は、昨日と同じものです。
……いえ、実際はそれよりも前から、しばらくずっと同じものを出し続けています。
缶の表面に印字された賞味期限は、三年と二ヶ月と九日後。途方もなく先の日付に思えます。
午前七時半になりました。
それは、家族が出かける時刻でした。飽きるほど繰り返されていた日常の光景は、今も目をつむれば、いとも簡単に再現できます。
主人は自家用車で職場へ、娘はスクールバスで学校へ。
愛しい家族の幻を、かつてそうしたように見送って、私は缶詰を片付けました。
午前八時には、お洗濯を。
午前九時には、家じゅうのお掃除を。
蓄電池のおかげで多少の電気が使えるので助かります。お洗濯もお掃除も、一人と一匹の過ごした分しか仕事がないのは寂しいところです。
お昼すぎには、お買い物に出かけます。自家用車に、ロビーも乗せて。スーパーマーケットの駐車場は独り占めです。
ロビーはいつも通りに車内でお留守番。もう自動では開かなくなった入り口の、割られたガラスの隙間から中へと入れば、店内は閑散としています。お客さんも店員さんも、誰の姿もありません。
陳列棚も同じです。山と積まれていた野菜やフルーツは、一つとして見当たりません。ハンドソープやトイレットペーパーなどの日用品も、ペットボトルの飲み物も、また同様に。
ただし小麦粉などの加工が必要な食品に関しては、まだ少し残っています。
手作りのパンやドーナツは娘の好物だったので、以前から我が家は頻繁に小麦粉を買っていました。私はいつも通りその一つを取ってカートに入れ、変わり果てた通路を進みます。
ウイルスが蔓延し始めた当時、このお店にはたくさんの人々が押し寄せました。
保存のきく食料品のほか、紙製品、消毒液、医薬品などが瞬く間に店頭から消えていったのをよく憶えています。
感染状況が悪化するにつれ、支払いをせずに商品を持ち去る人や、強盗まがいのことをする人まで出てきました。
それでもお店の品物がすっかりなくなるより、お客さんがいなくなる日の方が早く訪れたのでした。
私は必要最低限の品物をカートに入れ、セルフレジの前に立ちます。
商品をバーコードリーダーに通します。機械は沈黙したままです。
自分の携帯端末を決済端末に当てます。機械は沈黙したままです。
これらの行為に何の意味もないことは理解しています。キャッシュ対応ならば、小銭を置いていくのですけど。
車の中でお利口に待っていたロビーと共に、帰路につきます。いつも通りの道順で、まっすぐに、迷う余地もなく。いつも通りに。いつも通りに。
もしも誰かが私を見たら、家族を失ったショックでおかしくなったと思うかもしれません。
でも本当は、真逆なのです。
――どんな時でも平常心を忘れずに。いつも通りの生活をしよう。
そう言ったのは主人でした。事実、それが自分を保つ唯一の方法に他なりませんでした。
幸い、やることはひっきりなしにあります。
洗濯物を下ろして、庭の手入れをして、ロビーの夕方のお散歩をして、娘を出迎えるべき時刻にはおやつを並べて、主人を出迎えるべき時刻には夕飯を準備して。
自分が主婦で良かったと、これほど思ったことはありません。
家事がある限り、この家での役目がある限り、私は平常時のルーティンを回していられるからです。
ただ、「おかえりなさい」を言う相手が実際にはいないということを除けば。
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