ネパールカレー、戦国を行く

@YUKIMATSURIUni

第1話 天正八年、チーズナン

天正八年、初夏。 日ノ本最大の交易都市、堺。 某は今井宗久。茶の湯を嗜み、織田様の天下布武を鉄砲と金で支える一介の商人である。


だが、今の某の足取りは鉛のように重かった。 「宗久、次の茶会、余人を驚かす趣向を凝らせ」 安土の御館様は、そう軽く仰せになった。名物狩りも極まり、唐物も南蛮物も見飽きた御館様を、今さら何で驚かせというのか。


じりじりと照りつける太陽が恨めしい。 汗を拭いつつ、ふと裏路地へ迷い込んだ時であった。


――フワッ。


「……!?」


某の鼻孔を、強烈な芳香が貫いた。 これは……胡椒か? いや、丁子? あるいは肉桂か? いやいや、あり得ぬ。これほどの薬種を、まるで香木のように焚き染めるなど、天子様とて出来ぬ所業。


匂いの元を辿ると、古びた土壁の間に、奇妙な空間が口を開けていた。 壁には見たこともない鮮やかな橙色の看板。そこには天竺の梵字ごとき文字と、『いんど・ねぱーる』なる南蛮文字が記されている。


「天竺の……寺か?」


某がその硝子の扉の前に立つと、手を触れてもいないのに、ウィーンと音を立てて左右に開いたではないか。 からくり仕掛けか! 某は商人の性に突き動かされ、恐る恐るその「魔境」へと足を踏み入れた。


「イラッシャイマセー!」


一歩入った瞬間、某は己の肌を疑った。 涼しい。あまりにも涼しい。 外は油照りの地獄だというのに、この堂内には、まるで初冬の比叡山ごとき清涼な風が吹き荒れている。 いかなる妖術か、あるいは氷室を壁裏に隠しておるのか。


「オキャクサン、ヒトリ?」


現れたのは、褐色の肌に彫りの深い顔立ちをした男。 南蛮人とも違う。まさに天竺の仏画から抜け出たような風貌である。 男は某の紋付袴と大小を見ても、眉一つ動かさぬ。よほど肝の据わった傑物と見える。


「い、如何にも。某は今井宗久と申す」 「ソウキュウさんネ。ココ、スワッテ」


促され、某は奇妙な椅子に腰を下ろした。木でも鉄でもない、実に軽く、滑らかな座り心地の素材である。


「ミズ、どうぞ」


ドン、と置かれたのは、銀色に輝く器。 南蛮鉄か? いや、銀にしては曇りがなく、あまりに硬質。 恐るべきは、その中身である。


「こ、これは……氷……!?」


某の手が震えた。 透き通る水の中に、拳ほどの氷塊が、無造作にいくつも浮いているではないか。 夏場の氷であるぞ。大名家ですら、欠片ほどを舌に乗せて涼を取るのが精一杯の代物。 それを、ただの水に……!


(この一杯で、米一俵……いや、それ以上の価値がある。なんと贅沢なもてなしだ)


某は震える手で器を口に運んだ。キンと冷えた水が、乾いた喉を刺すように潤す。 あな恐ろしや。これが天竺の富か。


「ウマイ? キョウ、アツイからネー」


男――店主と思しきその人物は、ニコニコしながら一冊の書物を持ってきた。 某はまたしても肝を冷やした。 絵ではない。まるで実物をそのまま紙に封じ込めたような、極めて精緻な彩色の図が並んでいる。 『えーせっと』『びーせっと』……呪文のような言葉が並ぶ。


「オススメは『ちーずなんせっと』ネ」 「ちーず……なん?」


某は意味もわからず、こくりと頷いた。 「カライ? 普通? ヴェリーホット?」 「は、はい」 某はただ、その異人の威圧感に飲まれ、言葉少なに答えるのみであった。


待つ間、堂内を見渡す。 壁には光る鏡が掛けられ、そこには象の頭を持つ神の姿や、極彩色の衣装を纏いし男女が舞い踊る姿が映し出されている。 絵が動いている……! しかも自ら光を放ちながら! やはりここは、現世ではないのか。


「オマタセシマシタ~」


ドンッ!!


運ばれてきた銀の盆を見て、某は絶句した。


「なっ……!?」


そこには、某の顔よりも巨大な、白くふっくらとした円盤が鎮座していた。


(盾か!?  南蛮兵が使う盾なのか?)


「アツいから、キヲツケテね」


某はおそるおそる、その「盾」――ちーずなんとやらに触れた。 熱い。だが、指が沈み込むほどに柔らかい。 引きちぎろうとすると――


とろり。


中から、黄金色の餅のようなものが、どこまでも糸を引いて溢れ出した。 蘇か!? 口に放り込む。


「!!!」


脳髄に雷が落ちたごとき衝撃。 精製された純白の小麦の風味。そして、高価な砂糖の甘みと、濃厚な乳のコク。 油と糖。なんたる背徳、なんたる豊穣。 飢饉の村なら、これ一枚で争いが起きるほどの滋養の塊である。


そして、隣にある赤い沼のような汁。 某は匙でそれをすくい、舐めた。


その瞬間、某の商人の血が沸騰した。


(肉桂、丁子、白檀、鬱金……! 待て待て、この一口の中に、小判何枚分の薬種が溶けておる!?)


これほどの香辛料、一匙分でさえ大名同士の贈り物に使われる品。 それを、原形を留めぬほど煮込み、あろうことか「汁」として啜るとは!


(この赤い汁一杯で、城が……いや、国が買えるかもしれん……)


某は戦慄した。 目の前の笑顔の男は、ただの料理人ではない。 天竺の王族、あるいは香辛料を支配する魔人に違いない。


(なんたる豊穣……! この一食で、堺の会合衆がひっくり返るぞ……)


某は涙を流し、皿に残った赤い汁の一滴までも、ちーずなんで拭い取り、腹に収めた。 満腹である。至福である。 某は手を合わせ、感謝の意を示そうとした。


その時である。


「ハイ、オカワリ! サービスネ!」


ドンッ!!


某の目の前に、焼きたての巨大な物体が叩きつけられた。 先ほどの丸い盾とは違う。今度は、大人の顔が三つは入ろうかという、巨大な「白い舌」のような形をしている。 湯気が立ち上り、焦げ目が香ばしい。


「なっ……頼んでおらぬ! 某はもう腹が……」 「ダイジョブ、ダイジョブ。タベル、ゲンキでる!」


男は笑顔で親指を立てた。 断れぬ。この天竺の流儀では、出された施しを拒否することは仏への冒涜になるやもしれぬ。 某は脂汗を流しながら、その巨大な白き舌をちぎった。


「これは……『なん』と申したか?」


某が問うと、男はニコニコと頷き、こう言った。


「ソウ。ナン。オイシイよ」


なん……。 南無(なむ)……!?


某はハッとして、壁に掛かった象の神の絵を見上げた。 そうか、これはただの食事ではない。 「南無」。すなわち、仏への帰依を示す聖なる儀式であったか! この巨大な白き供物を腹に収めることこそが、修行。


「南無(ナン)……阿弥陀仏……」


某は念仏を唱えながら、限界を超えた胃袋に、焼きたての聖なる南無を押し込んだ。 小麦の甘みが、苦行のように、しかし優しく某を包み込む。


「ゴチソウサマ。オイシカッタ?」


男が水を注ぎ足しに来た。あろうことか、また新たな氷を投入して。


「……見事だ。これほどの贅沢、信長様ですら知らぬであろう」


某は居住まいを正した。 勘定の時である。 この命の洗濯、いかほどの代償を求められるか。


「代金は、いかほどか」 「950円ネ」


「キュウヒャク・ゴジュウ・エン……?」


聞き慣れぬ単位。「円」とは、天竺の貨幣だろうか。もしや銭の枚数か? 相当な高値だ。 だが、それも当然。 某は懐から、のっぴきならぬ時のために忍ばせておいた砂金の小袋を取り出した。 純度高き、川砂金である。


「これで……足りるだろうか。不足ならば、すぐに店から人を寄越すが」


男は砂金の入った袋を受け取り、中を覗き込んだ。 一瞬、目が丸くなったように見えた。 そうだろう、これほどの量は、堺の商人といえど容易には出せぬ。


「OK、OK。チョウド、モラっとくよ」


「……!」


(これで、丁度だと……!?)


某は驚愕に目を見開いた。 この袋の砂金があれば、鉄砲が五十丁は揃う。 それが、この料理一食分と「釣り合う」というのか。 いや、氷と香辛料を考えれば当然のこと。むしろ、この額で「勘弁してくれている」のかもしれなかった。


男は笑顔で、一枚の紙片を差し出した。 極彩色の印が押されている。


「コレ、十回来たら、ランチ一回タダ」 「なっ……!?」


(砂金一袋の料理が、無償になる権利書……!)


某は震える手でその紙片を受け取った。某が呆然としていると、男は勘定台の脇にある、銀色の小鉢を指さした。


「コレ、たべる。クチ、さっぱり」


見れば、小鉢の中には、五色の宝石のごとき粒が詰まっている。 小さな粒の中に、紅、緑、白と鮮やかな色が散りばめられているではないか。 (宝石を……食えと申すか?) これもまた、天竺の富の誇示か。あるいは消化を助ける秘薬か。


某は恐る恐る、備え付けの小さな匙で、その宝石をすくい、口へと運んだ。


ガリッ。


「……!」


甘い。そして、口中に清涼な風が吹き抜ける。 砂糖菓子の中に、爽やかな薬草の種が潜んでいる。 重厚な薬種料理のあと、この一匙の清涼感はどうだ。 計算し尽くされている。


「見事だ……」


某は男に深々と頭を下げた。


「アリガトゴザイマシター。マタ来てネ」


男から渡された『すたんぷかーど』なる権利書を握りしめ、某は灼熱の堺の往来へと戻った。 腹は裂けんばかりに重いが、心は洗われたようだ。


「南無(ナン)……。恐るべき異国の教えよ」


再び、灼熱の堺の通り。 じっとりと汗が噴き出すが、腹の中だけは熱く満たされていた。 某は、手の中の権利書を、家宝の如く握りしめた。

某は決意した。 まずはあと九回。 家屋敷を質に入れてでも、あの「ちーずなん」なる黄金の盾にありつかねばならぬ、と。




自動ドアが閉まり、シャルマさんはふう、と息をついた。 レジの横に、客が置いていった砂金のおもちゃを飾る。


「今日のお客さん、面白かったネー」


シャルマさんは、厨房のネパール人コックに話しかけた。 コックが賄いのダルバートを食べながら首を傾げる。


「ナンデ?」 「サムライのコスプレ、すごくリアル。でも、食べる時ずーっと『ナム、ナム』言ってたヨ」 「ナム? 祈り?」 「たぶん、設定に入り込んでるネ。役者さんカモ」


シャルマさんは、レジ横の銀の小鉢を見た。


「最後、ムクワス食べる時も、すごい怖い顔して食べてたネ。毒見みたいだったヨ」 「ハハハ。日本人、ムクワス苦手な人多いケド、全部食べた?」 「食べた、食べた。エライよ」


シャルマさんは、スタンプカードの束を整理しながら、窓の外の通りを眺めた。


「また来るって言ってたネ。次はもっと大きいナン、サービスしてあげよう」


オレンジ色の看板の下、今日も「ヒマラヤン・ダイニング」は、時空を超えてマイペースに営業を続けるのであった。



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