還元少女

黄昏クゥ

第1話

G型主系列星からの光子放射が惑星の大気層を透過し、私の部屋のカーテンというポリエステル製の遮光フィルタをわずかに回折して、網膜上の視細胞を刺激する。この量子的イベントがトリガーとなり、私の脳幹網様体賦活系において神経伝達物質の分泌カスケードが開始された。


それは「目覚め」という詩的な表現で語られるような連続的なプロセスではない。睡眠中、非同期的に発火していた大脳皮質のニューロン群が、突如として特定の周波数帯域で同期し、自己言及的なループ構造――いわゆる「意識」と呼ばれる幻想――を再構築する、相転移の瞬間である。波動関数の収束にも似たそのプロセスを経て、私は再びこの宇宙における観測者としての地位を確立した。


現在の私の状態ベクトルは、布団という名の断熱材の内部に局在している。

外部環境(部屋の空気)の温度はおよそ摂氏十八度。対して、布団内部の微細気候は私の代謝熱によって三十六度付近で平衡状態にある。この十八ケルビンという急峻な温度勾配は、私の有機システムにとって強力なポテンシャル障壁として機能していた。


熱力学第二法則は冷酷だ。私がこの断熱領域から脱出した瞬間、私の体表面からは対流と放射によって急速に熱エネルギーが散逸する。ホメオスタシス維持のために視床下部が要求するエネルギーコストを試算すると、起床という行為は極めて非効率的な投資に思える。


しかし、膀胱内部の流体圧力が閾値に接近しているという内部センサーからの警告信号が、その逡巡を却下した。

私は意を決し、骨格筋のアクチン・ミオシンフィラメントにATP加水分解エネルギーを投入した。摩擦係数の高いシーツを押しのけ、約四十五キログラムの質量体を重力ポテンシャルの低い位置から引き剥がす。


冷気が皮膚の熱受容体を直撃し、立毛筋が収縮する。鳥肌という名の、もはや現生人類には何の断熱効果ももたらさない退化器官の痕跡的反応。私はその無意味な生理現象を冷徹に観察しながら、重力加速度1Gに抗って直立姿勢を確保した。


廊下への移動は、制御された落下運動の連続である。私の小脳は、三半規管内のリンパ液の慣性移動と、足底からの固有受容感覚をリアルタイムで積分し、重心の投影点が支持基底面から逸脱しないよう、毎秒数百回の微細な姿勢制御を行っている。この複雑怪奇な逆振り子運動を、私の意識は「歩く」という単一のコマンドとして認識しているに過ぎない。意識というユーザーインターフェースは、下層の処理を隠蔽しすぎている。


洗面所へと到達する。蛇口のレバー――真鍮にクロムメッキを施した冷たい金属体――を操作し、バルブを開放する。上水道管内の圧力が解放され、H2O分子の集合体が層流となって流出する。私は両手を椀状に形成し、その流体を受け止める。水流が手掌に衝突し、乱流へと遷移する際の不規則な変動。水の粘性係数と表面張力が、皮膚の微細な凹凸に作用し、濡れるという感覚を生み出す。


顔面に水を叩きつける。気化熱による急速な冷却効果が、顔面の毛細血管を収縮させ、覚醒レベルを強制的に引き上げる。鏡に映る像を見る。そこにあるのは、特定の遺伝子コードに基づいてタンパク質が自己組織化した有機構造体だ。特定の波長の光子を反射する角質層、皮下のヘモグロビンが透けることによる赤みの分布、左右非対称な眼窩の配置。これらが「私の顔」として認識されるのは、脳の紡錘状回におけるパターン認識アルゴリズムの出力結果に過ぎない。私はその出力に「美醜」という主観的なタグ付けを行うことを拒絶し、単に「システムは正常に稼働中」というステータスのみを確認した。


台所(キッチン)という空間は、家庭内における化学実験室であり、熱力学の支配領域である。私は冷蔵庫を開ける。コンプレッサーが冷媒ガスを圧縮し、凝縮器で放熱し、蒸発器で吸熱するというヒートポンプ・サイクルが、庫内のエントロピーを局所的に低下させ続けている。その代償として、背面の放熱板からは廃熱が放出され、部屋全体のエントロピーは増大している。マクスウェルの悪魔はここにもいない。ただ、エネルギー保存則が厳格に適用されているだけだ。


私は卵ケースから、鶏卵という名の巨大な単細胞を取り出した。炭酸カルシウムの多孔質シェルに守られた、生命の未分化な可能性。フライパンをガスコンロに設置し、点火する。圧電素子が放電し、メタンガスと酸素の混合気体に活性化エネルギーを与える。連鎖的な酸化反応が始まり、青白いプラズマが形成される。この炎は、数億年前に光合成によって固定された太陽エネルギーが、時間を超えて解放されている姿だ。


私はフライパンに植物性油脂を滴下する。温度上昇とともに粘度が低下し、油膜が金属表面に広がる。ライデンフロスト効果が生じる直前の温度域を見極め、私は卵の殻を縁で破砕した。

卵白と卵黄が重力に従って落下し、熱せられた金属面に接触する。


ここから先は、タンパク質の熱変性(デナチュレーション)という不可逆プロセスの独壇場だ。透明なコロイド状だった卵白のアルブミン分子は、熱振動によって水素結合を切断され、その立体構造を崩壊させていく。疎水基が露出し、分子同士が無秩序に絡み合い、凝集し、光を散乱させる不透明な白体へと相転移する。


同時に、アミノ酸と還元糖の間でメイラード反応が進行し、褐色の高分子化合物(メラノイジン)と、芳香族化合物が生成される。この複雑な有機化学反応の副産物を、私の嗅覚受容体は「香ばしい匂い」として検知し、消化器系に胃酸分泌の準備指令を送る。


私は同時に、食パンという発酵済みデンプンの多孔質体をトースター――赤外線放射装置――に投入した。ニクロム線に電流が流れ、ジュール熱が発生する。波長数マイクロメートルの赤外線がパンの表面分子を振動させ、水分を蒸発させる。表面の炭化が進行する。焦げ目とは、炭素の骨格が露出し始めたグラデーションのことだ。


テーブルに、熱変性を終えたタンパク質の塊(目玉焼き)と、部分的に炭化した炭水化物の板(トースト)を配置する。


「いただきます」


それは、他の生物の有機物を自己の構成要素として取り込むという、従属栄養生物の宿命に対する儀礼的な承認プロトコルである。私はトーストを把持し、口腔内へと搬送する。咬筋が収縮し、下顎骨がレバーとして作用する。エナメル質という、人体で最も硬度の高いアパタイト結晶が、トーストの多孔質構造を粉砕する。


「サクッ」という振動音は、骨伝導によって内耳に直接伝達される。口腔内では、唾液腺からアミラーゼを含む水溶液が噴射され、粉砕されたデンプンとの混合が開始される。加水分解。高分子の多糖類が、より単純なマルトースやデキストリンへと切断されていく化学的プロセス。私の味蕾は、その分解生成物である糖の化学構造を鍵と鍵穴のよう受容し、脳へと「甘味」という報酬信号を送信する。これは、高エネルギー源を獲得したことを個体に学習させるための、進化論的な強化メカニズムだ。


続いて、半凝固状態の卵黄を口に含む。脂質とタンパク質のエマルジョン。濃厚な粘性流体が舌の上を滑り、咽頭へと送られる。嚥下反射。喉頭蓋が気道を閉鎖し、食道括約筋が弛緩する。蠕動運動という名の筋肉の波動が、食塊を胃という強酸性の反応槽へと強制輸送する。


私の意識が制御できるのはここまでだ。事象の地平線を越えた物質は、自律神経系というブラックボックスの管理下に置かれ、ペプシンや塩酸による科学的分解工程へと委ねられる。


私は、窓の外を見た。太陽の高度が上昇し、入射角の変化によってレイリー散乱のスペクトルが青方偏移している。空が青いのは、大気分子のサイズと可視光線の波長の関係性に起因する物理現象だ。


しかし、その青色の光子が私の網膜を叩くとき、私の脳内ではセロトニンの分泌が促進される。光による精神状態の変調。私もまた、入力に対して予測可能な出力を返すだけの、複雑な関数に過ぎないのかもしれない。


通学鞄を持ち上げる。重力との対話が再び始まる。微視的な分子運動から巨視的な天体運行まで、あらゆる物理法則が幾重にも絡み合い、この「登校」という些細な現象を成立させている。その精緻な因果の網の目の中を、私という観測者は、ただ滑るように移動していく。私の内側で、消化吸収されたグルコースがミトコンドリアのクエン酸回路に投入され、新たなATPが合成され始めているのを感じながら。


「行ってきます」


空間の空気振動に向けて発せられた音声信号は、誰に届くわけでもなく、壁面での反射と吸収を繰り返し、やがて熱エネルギーのノイズの中に埋没して消えた。

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