第17話 禁呪の乾燥と絶対滑る聖域

「グオオオオオオオオッ!!」


 旧校舎の廊下に、耳障りな咆哮が響き渡った。


 俺の目の前で、生徒たちから除去したカビの残骸と、五十年分の埃や泥が凝縮し、巨大な『汚泥の巨人(ダスト・ゴーレム)』が顕現していた。悪臭を放つ巨体が咆哮するだけで、正気に戻ったばかりの生徒たちが腰を抜かしてへたり込む。


「ひぃぃぃッ! 化け物だぁ!」

「な、なんだアレは!? 汚れが……怪物になったぞ!?」


 パニックに陥る生徒たち。だが、俺の感想は違った。


(はぁ……。ゴミはゴミ箱に捨てろと、小学校で習わなかったのか?)


 分散していた汚れが一箇所に集まってくれた。掃除の手間が省けて、ある意味では好都合だ。だが、問題は……。


「グ……ゴ……ッ……」


 巨人が一歩踏み出すたびに、その足元から粘つく体液が滴り落ち、俺が丹精込めて磨き上げた床に、新たなシミを広げていく。


(……許さん)


 俺の中で、何かが最終的に、完全に、ブチ切れた。


 巨人が生徒たちに向かって、泥でできた丸太のような腕を振り上げた。


「せ、先生! 逃げてください! あいつは物理攻撃が効かないタイプだ!」


 生徒の一人が叫ぶ。確かに、不定形の泥人形相手に、殴打や斬撃は無意味だろう。

 巨人の腕が、俺の頭上から振り下ろされる。


 ドチャッ!


 凄まじい質量の泥が床を叩いた。だが、俺はそこにいない。


 俺は巨人の股下をスライディングで抜け――その際、自分の服が汚れないよう『魔力衣』で完璧にコーティングしつつ――背後へと回り込んでいた。


(打撃が無効? 当然だ。そもそも、こんな不潔な塊をモップで叩きたくない)


 モップが汚れる。バケツの水が腐る。二次災害だ。

 俺は冷めた目で、巨人の身体構造を解析(スキャン)する。


(構成要素は泥、カビ、埃。それらを繋ぎ止めているのは、残留魔力と……この旧校舎特有の『過剰な湿気』か)


 ここは風通しが悪く、湿度は常に90%を超えている。この湿気こそが、巨人の粘着性を維持する接着剤の役割を果たしているのだ。


「……湿気が多すぎますね。これでは洗濯物も乾かない。換気が必要です」


 俺はモップを壁に立てかけ、壁に向かって右手を突き出した。魔力だけを浸透させ、まるで神経網のように校舎全体へと張り巡らせていく。


 ガタガタガタガタガタガタッ!!


 次の瞬間、旧校舎中の全ての窓という窓が、一斉に、凄まじい勢いで開放された(いくつかは錆びついていたので、衝撃で吹き飛んだ)。


「――『強制乾燥(ドライ・クリーニング)』」


 直後、台風のような猛烈な突風が校舎内を吹き抜けた。


 ゴオオオオオオオオオッ!!


「うわああああああッ!?」

「な、なんだこの風はぁぁぁッ!?」


 生徒たちが床にしがみつく。だが、この風の本質は「強さ」ではない。「乾燥」だ。

 俺の風魔法が空気中の水分分子だけを強制的に剥ぎ取り、屋外へと排出していく。室内の湿度は、瞬く間に90%から0%近くまで急降下した。


「グ、オ……ギ……?」


 巨人の動きが鈍る。表面のヘドロが白く乾き、ヒビが入っていく。

 まるで、数千年の時が一瞬で過ぎ去ったかのように。ドライヤーの強風を至近距離で当てられた粘土細工のように、巨人の体表から水分が蒸発し、ボロボロと崩れ始めた。


「ガ……ァ……」


 腕が崩れ落ち、胴体が砂のように風化し、最後には頭部が粉となって霧散した。


 ザァァァ……。


 後に残ったのは、水分を完全に失い、カラカラに乾いたただの巨大な「埃の山」だけだった。


「……ふぅ。換気完了。少し肌寒いですね」


 俺は箒とちりとりを手に取ると、手際よく埃の山を回収し始めた。


 シン……と静まり返る廊下。その沈黙を破ったのは、物陰から飛び出してきたレオナルドの絶叫だった。


「じ、時間を……! あの巨人を取り巻く空間の『時間』だけを、数千年単位で加速させて、強制的に風化させたとでも言うのか!?」


 へたり込んでいた生徒たちがハッと息を呑む。


「そ、そんな馬鹿な! 時間を操るなど、神の領域だぞ!?」


「あるだろうがッ!」


 レオナルドが、狂気を帯びた瞳で叫び返す。


「古の禁呪……! 時の流れそのものを支配する、神話級の大魔法……! その名は、『クロノス・マスタリー』!!」


 生徒たちの視線が、恐怖から畏怖、そして絶対的な服従へと変わっていく。


(……乾燥させただけなんだが。まあ、説明するのも面倒か)


 俺は誤解を解くのを諦め、淡々と掃除を続けた。


「……ゴミは片付きました。君たちも、これ以上ここを汚すようなら」


 俺は眼鏡の奥から、冷ややかな視線を生徒たちに向けた。


「君たちの『時間』も、進めることになりますよ?」


 もちろん、「残りの人生を掃除用具入れの中で過ごさせるぞ」という脅し文句のつもりだったが、彼らの耳には「寿命を削って老衰死させるぞ」という死の宣告として届いたらしい。


「「「ひぃぃぃぃっ! ごめんなさぁぁぁぁいッ!!」」」


 脱兎のごとく、生徒たちは悲鳴を上げながら逃げ去っていった。


***


 翌日。アークライト魔法学園に、新たな「絶対不可侵領域」が爆誕していた。


「おい、見たかよ、旧校舎……。昨日までの廃墟が嘘みたいだ」

「ああ……管理人のゼクス先生は『時の番人』なんだってよ……」


 壁のツタは刈り込まれ、窓ガラスは修復され、チリ一つなく磨き上げられた廊下は、空の雲を映す水鏡と化していた。あまりに丹念にワックスがけされた床は、ハエが止まろうとしてツルリと滑るほどの鏡面仕上げだ。


「昨日の夜、肝試しに行った連中が言ってたぞ……。あの床に足を踏み入れた瞬間、異次元に滑り落ちて魂を浄化されるんだと……」

「ひぃっ……! もうあそこはただの旧校舎じゃない……『聖域』だ……!」


 おかげで、俺の聖域(サンクチュアリ)は平和そのものだった。


 ――ピチョン。


 天井の隙間から、一匹の青いスライムが俺の肩に落ちてきた。学園中に放っていた俺の「密偵」の一体だ。


「……ん? 戻ったか」


 スライムは俺の耳元で「ふるふる」と震え、魔力の波長で情報を伝えてくる。


『報告。ターゲット(ヴォルカ)の魔力残滓、発見。場所ハ、地下最深部――通称、『沈黙の書庫』』


「……あそこか」


 よりによって、音に反応して侵入者を排除する古代の防衛システムが生きている危険地帯とは。

 俺が重い腰を上げた、その時。校舎の入り口から、二つの影が忍び込んできた。


「……先生。先生ですよね?」


 声を潜めて現れたのは、目をキラキラと輝かせたレオナルドと、その後ろでおどおどしているリリィだった。


「『泥まみれの捜査網』が、ついに凶兆を捉えたのでしょう? 先生! この『魔獣の王』の凱旋に、我ら臣下も同行させてください!」


「い、行きたいですぅ……!」


 リリィも、瓶底眼鏡を光らせて食い気味に迫ってくる。


「地下の『沈黙の書庫』ですよね……? あそこの蔵書は、国宝級のレア本ばかりで……!」


(……こいつら、遠足気分か?)


 一人で行くより、効率はいいかもしれない。俺は渋々頷いた。


「……はぁ。いいでしょう。ただし、条件があります」


「な、なんでしょう!? 命に代えても従います!」


 俺は真顔で告げた。


「足手まといになったら、置いていきます。それと――」


 俺はピカピカの床を指差した。


「靴を脱いで上がってください。土足厳禁です」

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