第6話 平和ボケの代償と暴食の宴

「見よ! 我がローゼンバーグ家に伝わる赤き裁きを!」


 雲ひとつない青空の下、野外演習場にレオナルド・フォン・ローゼンバーグの高らかな声が響き渡る。

 彼が指先を優雅に振るうと、空中に展開された複雑怪奇な魔法陣から、ドラゴンの頭部を模した巨大な火炎弾が放たれた。


 ズドオオオオオオオオン!!


 標的用に用意されていた岩山の一つが、爆音と共に粉々に吹き飛ぶ。


 無駄に派手な爆発エフェクト。衝撃波で砂埃が舞い上がり、周囲の木々が激しく揺れる。熱波が観客席まで届き、女子生徒たちの黄色い悲鳴と歓声が入り混じった。


「キャー! レオ様素敵ー!」

「すっげえ! 岩山一つ消し飛ばしたぞ!」

「さすが黄金世代の筆頭! 王都の視察団も度肝を抜かれただろうな!」


 拍手喝采。スタンディングオベーション。

 レオナルドは額の汗を拭うこともせず、涼しい顔でマントを翻し、観衆に向かって優雅に手を振っている。


***


(……はぁ。また環境破壊かよ)


 演習場の隅っこ、万が一の事故に備えて結界維持装置の横に立たされていた俺――窓際教師ゼクスは、深いため息をついた。


(今の魔法、威力の三割はあの無駄なドラゴンの造形維持に使われてるぞ。しかも着弾点のエネルギー拡散が酷い。岩を砕くのが目的なら、中心核に圧縮して貫通させるべきだろ。あれじゃただの『爆竹』だ)


 だが、この学園では「爆竹」こそが正義らしい。威力よりも見た目。効率よりも演出。


「おい、そこの窓際」


 背後から声をかけられ、振り返ると教頭が立っていた。手には扇子を持ち、不快そうに俺を見下ろしている。


「君は突っ立っているだけで給料がもらえるのだから、気楽なものだねぇ。見なさい、レオナルド君のあの勇姿を。君のような『教科書通り』の凡人には、一生かかっても到達できない領域だよ」


(到達したくもねぇよ。あんな魔力浪費スタイル)


「ええ、全くです。私のような者が、あのような華麗な魔法を使えるはずもございません」


 俺は愛想笑いという名の鉄仮面を被り、適当に相槌を打つ。


 数日前の職員会議で、俺が命がけで訴えた「地下からの脅威」についての警告は、完全に黙殺されていた。それどころか、「スライムの世話のしすぎで幻覚を見た哀れな男」というレッテルまで貼られる始末だ。


「分かっているならよろしい。君は余計なことをせず、終わったらさっさとゴミ拾いでもしてくれたまえ」


 教頭は鼻歌交じりに来賓席へと戻っていく。

 俺はその後ろ姿を見送りながら、足元の地面に視線を落とした。


 ズズ……。


 靴底を通して、微かな振動が伝わってくる。昨日よりも、さらに強く、速くなっている。


(……馬鹿どもが。宴の最中に足元が抜けるとも知らずに)


 俺の『魔力感知』は、地下数百メートル付近まで上昇してきた「それ」の気配を明確に捉えていた。

 飢餓感。圧倒的な食欲。

 そいつは今、地上のこのバカ騒ぎ――溢れかえる魔力反応を、ヨダレを垂らして見上げている。


***


「……リリィ君」


 俺は近くにいた、瓶底眼鏡の女子生徒に声をかけた。彼女は演習の音に怯えるように、木の陰で小さくなっていた。


「ひぃっ! は、はいっ! な、何でしょうゼクス先生!?」

「君は今すぐ、気分が悪くなったフリをして保健室へ行きなさい。できるだけ校舎の高い階へ」

「え……? で、でも、演習はまだ……」

「いいから。これは命令じゃなくて、アドバイスだ」


 俺が少しだけ真剣な眼差しを向けると、リリィはハッとしたように俺の目を見つめ返し、コクンと頷いた。


「わ、分かりました……!」


 彼女が小走りで去っていくのを確認し、俺は再び視線を演習場の中央へ戻す。

 レオナルドが、次の魔法を披露しようと両手を広げた、その時だった。


 ドクンッ!!


 心臓を直接掴まれたような、強烈な振動が大地を揺らした。


「うわっ!?」

「きゃあ! 地震!?」

「なんだ!? 演出か!?」


 生徒たちがざわめく中、俺は呟いた。


「……時間切れだ」


 バキバキバキバキッ!!


 耳をつんざくような破壊音と共に、演習場の中央――レオナルドが立っていた場所のすぐ近くの地面が、巨大な口を開けたように陥没した。


「な、なんだ!?」


 レオナルドがバランスを崩し、慌てて後退する。


 その直後。

 陥没した穴の底から、どす黒い噴水のようなものが吹き上がった。


 ドロォォォォォォォォ……!


 それは泥ではなかった。

 濃紫色に濁り、腐った肉のような悪臭を放つ、半液状の巨大な塊。

 不定形の体表には、無数の気泡がボコボコと浮かんでは弾け、そのたびに強酸性のガスを撒き散らす。


「なんだあれ……!? スライム……? にしてはデカすぎるぞ!」

「臭っ! 何この臭い!」


 出たな。変異種『捕食粘性体(プレデター・スライム)』。

 長年の封印で飢え切っている上に、ここの連中がバンバン魔力を垂れ流すもんだから、匂いにつられてお出ましになったわけだ。


***


「うろたえるな!」


 パニックになりかけた場を制したのは、やはりレオナルドだった。彼はマントを翻し、果敢にも怪物の前に立ちはだかる。


「たかが薄汚いスライムの変異種だろう! 来賓の方々の前だ、ちょうどいい余興になったな。――消え失せろ、醜悪な化け物め!」


 レオナルドの全身から、凄まじい魔力が立ち上る。彼が得意とする、最大火力の炎魔法だ。


(馬鹿が! 今、魔力を使えばどうなるか分からんのか!)

 燃え盛る炎に油を注ぐようなものだ!


「紅蓮の顎(あぎと)よ、全てを灰燼に帰せ! 『ヴォルカニック・バスター』!!」


 ゴオオオオオオオオッ!!


 先ほどのドラゴン弾を遥かに凌ぐ、巨大な火炎の渦が生成され、動きの鈍い粘性体の巨体に真正面から激突した。

 ドオオオオオオオオオン!!

 爆炎が視界を覆い尽くし、生徒たちから「おおーっ!」という歓声が上がった。


「やったか!?」

「さすがレオ様! 一撃だ!」


 レオナルドは勝利を確信し、フッと前髪をかき上げた。


「……愚かな。僕の炎に焼けないものなど――」


 その言葉は、途中で凍りついた。


 煙の向こうから現れたのは、炭になった死骸ではない。

 先ほどよりも一回り……いや、二回り以上巨大化した、赤熱する粘液の巨塔だった。


 ジュボッ、ジュボボボボ……。


 怪物の体表が赤く脈打ち、レオナルドの放った炎の魔力を、文字通り「咀嚼」している音がおぞましく響く。


「う、嘘だろ……? 僕の魔法が……餌にされた!?」


 レオナルドが震える声で呟く。

 効いていないどころの話ではない。お前は今、空腹の猛獣に極上のステーキを放り込んだのと同じだ。


「キシャァァァァァァァァァァ!!」


 エネルギーを摂取して活性化した怪物は、歓喜の咆哮を上げた。

 そして、その体から無数の触手が、鞭のように射出される。その触手は、レオナルドの魔法と同じ、紅蓮の炎をまとっていた。


 ヒュンッ!


「あ……」


 レオナルドが反応する間もなかった。

 炎の触手の一本が彼を薙ぎ払い、ボロ雑巾のように空高く弾き飛ばす。


「がはっ!?」


 彼は地面に叩きつけられ、数回バウンドして動かなくなった。自慢のマントは泥にまみれ、美しい金髪は無残に乱れている。


「レオ様!?」

「いやあああああ!」


 悲鳴が連鎖する。

 学園最強の、あまりにも呆気ない敗北。それは、生徒たちの最後の希望を打ち砕くのに、十分すぎる光景だった。


***


「せ、先生! 何とかしてください!」

「こ、こんな事態は想定していない! 警備班は何をしている!」


 教頭が顔面蒼白で叫ぶが、エリート教師たちも腰が引けている。

 彼らの専門は対人戦や、教科書通りの魔獣討伐だ。物理攻撃無効、魔法吸収属性を持つ未知の怪物への対処法など、マニュアルのどこにも載っていない。


 逃げ惑う生徒、腰を抜かす教師、瓦礫の下敷きになる来賓。そこにあるのは、地獄絵図だった。


(……やれやれ。予言通りになったな)


 助ける義理はない。俺は警告した。無視したのはそっちだ。


 だが、脳裏に浮かぶのは、俺が手塩にかけて育てた、あの飼育小屋のスライムたちのプルプルした姿。ここの人間どもより、よっぽど素直で可愛げがあった。

 そして、この化け物は、俺の可愛いスライムたちの「同族」の成れの果てだ。


(……チッ。管理不足で暴走した家畜の始末をつけるのは、飼育係の仕事、か)


 俺は舌打ちを一つした。

 怪物の触手が、逃げ遅れた女子生徒の足首を狙って伸びるのが見えた。スローモーションのように。


「ヒッ……!? よ、用務員のオジサン……!?」


 腰を抜かした女子生徒が、涙目で俺を見上げる。

 俺は彼女と触手の間に、音もなく割って入っていた。

 触手が俺の顔面めがけて、風切り音を立てて迫る。


「どいて! 死んじゃう!」


「死なんよ」


 俺は呟き、右手を軽くかざした。


 意識するのは、数日前のあの屈辱的な職員会議。そして、昨日まで泥まみれになりながら解析した、スライムの「流体」の理屈。


「お前らが散々馬鹿にした『教科書通り』の基礎ってやつを……嫌というほど見せてやる」


 触手が俺の鼻先に届く、その寸前。

 俺の瞳の奥で、解析完了の文字が青白く輝いた。

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