第9話

 翌朝。

 目を覚ました瞬間、胸の奥がじわっと熱を持っているのに気づいた。


(……まただ)


 ここ数日、竜紋の“うずき”はずっと続いている。

 昨日、図書塔で古文書に触れてからは、それが一段と強くなった気がする。


「……熱はない、はず」


 手の甲を額に当ててみる。

 体温的には平熱。けど、胸の奥だけじんじん熱い。


(これ、完全に病院案件じゃなくて“厄介な血”案件なんだよな……)


 ため息をつきながら制服に着替え、寮を出る。



 朝の学園は、一見いつも通りだった。

 生徒たちのざわめき、行き交うローブや剣帯、魔力の気配。


 ……けど。


「なんか、空気固くない?」


 教室に向かう廊下で、ふとそんな違和感が喉元まで出かかる。


 教師たちの表情が妙に険しい。

 話し声もいつもより低く、早足で歩いている人がやけに多い。


「ライガ君、おはよ!」


 そんな空気をぶち破るように、背中から明るい声が飛んでくる。


「お、おはよ。アリシア」


 振り向くと、金髪ポニテの騎士志望少女。いつも通り、眩しい笑顔だ。


「どうしたの? すごい真面目な顔してたよ?」


「いや、なんかさ。先生たち、いつもよりピリついてない?」


「……あ、やっぱライガ君もそう思う?」


 アリシアが小さく声を潜める。


「朝から“演習場の立ち入り禁止”って貼り紙出てたしさ。

 理由聞いても『準備中だ』ってはぐらかされるし……」


「準備って、何の?」


「さぁ……?」


 そこへ、リュミナが本を抱えたまま歩いてきた。


「おはよう、二人とも」


「おはよ、リュミナ。ねえ、なんか今日は学園が変じゃない?」


「変ね」


 あっさり肯定された。


「先生たちの魔力の“張り詰め方”がいつもと違うわ。

 何か大きな行事が控えている時の空気」


「行事って……もうすぐ中間考査とかあるけど、それ?」


「試験でここまで構える必要はないと思うけど」


「だよね」


 三人で首を傾げつつ教室へ向かう。



 午前の座学は、一応普通に始まった。


 魔術理論、王国史、古代魔法体系。

 いつもなら睡魔と戦う時間だけど、今日はちょっと違う。


(……なんか、空気が落ち着かない)


 先生たちの視線が時々、窓の外や廊下に向く。

 誰かが遅れて入ってくるたびに、クラス全体がビクリと反応する。


 胸の竜紋も、いつもより存在感がある。

 じんわりと熱を持ち、時折心臓の鼓動とズレたタイミングで“どくん”と脈打つ。


(……やめて。不安煽るのやめて)


 そんな俺の心情を知ってか知らずか、前の席から紙切れが飛んできた。


 開くと、丸っこい字で一言。


『顔こわい』


 アリシアだ。


 斜め前からこっそり覗いてくるので、ペンで「大丈夫」と書いて返す。

 ……あんまり安心した顔はしてないけど。


 隣では、リュミナが小声で囁いた。


「ねえ、ライガ君。さっきから魔力、無意識に漏れてるわよ」


「マジで!?」


 思わずちょっと大きい声が出た。


 先生がちらっとこっちを見る。

 とりあえず咳払いで誤魔化す。


「……どのくらい漏れてた?」


「周囲に影響出るほどじゃないけど。

 でも、いつもより“竜紋の流れ”が荒い感じ」


「俺の体、どんどん人間から遠ざかってない?」


「元々そこまで人間ぽくなかったからセーフじゃない?」


「フォローが暴力なんだが!?」


 アリシアが口を押さえて笑いを堪えている。

 その表情を見たら、さっきまで張り詰めてた気持ちが少しだけ軽くなった。



 午前の授業が終わると、教室は一気に賑やかになる。


「なぁライガ!」

 ドカンと背中を叩かれる感触。もはや誰かはわかる。


「ガルド、痛いって」


「お前が頑丈すぎんだよ! それより聞いたか?」


「なにを」


「今日の午後だよ午後! 演習だってよ、実戦形式の!」


「え」


 アリシアとリュミナと同時に声が重なった。


「聞いてないんだけど?」


「さっき先生が廊下で話してんの聞いちまってさ。

 “午後の実戦演習、準備を急げ”ってな!」


「盗み聞きじゃん」


「情報戦だよ!」


 ガルドは胸を張る。


 でも、さっきの“演習場立ち入り禁止”と繋がった。


(実戦演習……? このタイミングで?)


 嫌な予感が、背筋を撫でた。


「演習ってさ、どのレベルの話なんだろうな」


「いつもの模擬戦程度ならいいけど……」

 アリシアが眉をひそめる。


「最近、外の魔獣も活発化してるって話だしね」

 リュミナも真剣な顔。


「ま、何が来ても面白そうじゃねぇか!」

 ガルドだけ元気いっぱいだ。

 このポジティブさ、ちょっと羨ましい。


 その時、ふと視線を感じた。


 振り向くと──


 教室の後ろの方で、レオン・バルシュトがこちらを見ていた。


 目が合った瞬間、彼はすぐに視線を逸らし、席を立つ。


「……」


「ライガ君?」


「あ、いや。なんでもない」


 本当は“なんでもない”ってことはないんだけど。

 レオンの、あの何とも言えない表情が頭から離れない。


(あいつ……何か知ってる顔だったな)


 でも、追いかけて聞き出すほど仲が良いわけでもない。

 あの日の試合以来、まともに話してすらいない。


(……面倒ごとは、これ以上増やしたくないんだけどな)



 昼休み、いつものように中庭で弁当を広げた。


 青空、噴水の水音、芝生の匂い。

 一見、平和そのものの光景だ。


「今日さ、もし魔獣が出てきたらさ」


 アリシアが唐揚げをつつきながら、ぽつりと言う。


「ライガ君、前みたいに一人で無茶しないでね?」


「前みたいって、図書塔の前のあれ?」


「そう。あの時の顔、見てて怖かったんだから」


 リュミナも頷く。


「あなた、誰かが傷つきそうになると、判断力が吹き飛ぶタイプよね」


「そんな分析要らないからね?」


 図星だから否定しきれないのが悔しい。


「でもさ」

 ガルドが口いっぱいにパンをほおばりながら続ける。


「お前が突っ込んでくれたおかげで、誰も死ななかったんだろ?

 それって、結構いいことじゃねぇの?」


「ガルド……」


「俺はさ、そういう奴、好きだぜ」


「……ありがとう」


 照れくさくて、視線をそらす。


 アリシアも笑っていた。


「だからこそ、みんなで一緒に戦おう。

 ライガ君が前に出て、その後ろを私たちが守るんじゃなくてさ。

 “横に並んで”戦う感じで」


「横に、ね」


「うん。私も剣、もっと頑張るから。

 リュミナだって魔法強いし、ガルドも頼りになるし!」


「任せろ!」


 ガルドが胸を張る。


 リュミナは、少しだけ目を伏せてから言った。


「……私もね。

 あなたを観察対象として見てる部分は、正直あるけど」


「急にひどいこと言うな」


「でも、それ以上に──友達だと思ってる」


「……」


 その言葉に、胸の深いところがじんと熱くなる。

 竜紋の熱とは、違う種類の温度だ。


(……あー、もう)


 気づいたら、笑っていた。


「……なんか、変だな。

 ついこの間まで、俺一人で平凡にモブやって終わる予定だったのに」


「今は?」


「うるさい友達が三人に増えて、騒がしい毎日を送ってる」


「それ、褒めてるの?」

 アリシアがむっとする。


「褒めてる褒めてる」


 本当に、そう思った。


 竜紋がどうとか、古い血がどうとか、王族がどうとか。

 そんな話は全部、俺の望んだ日常からはほど遠い。


 けど──この時間だけは、悪くない。



 午後のホームルーム。


 担任が入ってきた瞬間、教室が静まり返る。


 いつもより顔が硬い。

 黒板の前に立つと、短く告げた。


「これより、午後は“実戦演習”を行う。

 装備を整え、指定された訓練場へ集合するように」


「やっぱりか……!」


 ガルドが小声でガッツポーズを取る。


「演習の内容は? 魔獣討伐ですか?」

 誰かが質問する。


「詳細は現地で伝える。

 ……くれぐれも、軽い気持ちで挑むな」


 担任の声には、いつもと違う緊張があった。

 それが逆に、不安を煽る。


 チャイムが鳴り、生徒たちが一斉に立ち上がる。


「行こっか、ライガ君」


「……ああ」


 胸の竜紋が、またひとつ脈打った。

 さっきまでの温かさとは違う、“戦いの予感”みたいな熱。



 訓練場へ向かう途中、ふと背中に視線を感じた。


 振り返ると、廊下の陰でひとりの魔術師が立っている。

 見覚えのない顔だ。年は若いが、ローブの紋様は魔術師団所属を示していた。


(……誰だ?)


 目が合った瞬間、その男はすっと視線を逸らし、別の廊下へ消えていく。


「ライガ君?」


「いや……なんでも」


 気のせいだと思いたい。

 でも、胸騒ぎはどんどん強くなっていく。


 空は晴れているのに、どこか重い。

 風が、生温い。


(嫌な感じだ……)


 訓練場の門が見えてきた。


 俺は無意識に、胸元を押さえた。


 竜紋は、まるでこう囁いているようだった。


 ──備えろ。

 ──何かが、来る。


 その意味を、本当の意味で理解するのは。

 この日の、もう少し先のことだ。

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