第52話

 風雅が自分の母に起きはじめた異変に気付きはじめたのは、一年程前のことだ。

 同じことを何度も聞いたり、今言ったばかりのことを覚えていなかったりする。

 まだ、52歳だ。ここまで物忘れがいっきにひどくなるのはただ事ではない。

 得も言われぬ恐怖を感じ、「大丈夫」だと何度も言う母を、なんとか父と二人がかりで病院に連れて行ったのが三ヶ月前のこと。

 脳の病気だろうか? それとも精神的なストレスが要因だろうか?

 そう思いながら医者の話を聞いたら、“若年性アルツハイマー病”と診断された。

 ──風雅は頭が真っ白になった。

 風雅の母は、風雅が中学に進学したことをきっかけにそれまでパートタイムでしていた仕事も、正社員としてフルタイムで働くようになった。

 頭の回転が速く、年のわりに物覚えも良い。

 そう思っていた。だが、思い返してみると母の言動に緩やかに違和感を感じはじめたのは、ずいぶん前からだったようにも思う。


 診断されてから、さらに日々症状が進行している。

 急激に母が母でなくなっていくのを風雅は見つめることしかできない。

 母は仕事も辞め、家にこもるようになった。

 介護が必要になったが父が仕事を辞めるわけにはいかない。

 風雅は在宅で授業が受けられる通信制の高校への編入を決めた。

 ──ふと自分が持っているスマートフォンを見つめる。

 半年ほど前、発売された時に話題になった最新のスマートフォン。母親と買いに行ったものだ。

 母に対する違和感が、徐々に心の中を蝕むように大きくなりはじめた頃だ。

 母に「欲しがっていたスマホを買いに行こう」と言われ、ひどく安心した。

 発売前にこのスマホが欲しい、とポツリと呟いただけだ。

 それをしっかりと覚えていた。

 最近の物忘れの多さは、きっと仕事が忙しく、精神的に疲れていたのだ。

 その頃はまだ病院を受診する前だったから、母の違和感をどこか楽観的に見ていたのかもしれない。

 だが、そう思っていられたのも僅かな間だけだった。

 その後病状は緩やかに、だが明確に悪化していった。


 ──四月に、部活動見学に訪れた新菜に出会った時は、まだ退学するだなんて考えていなかった。

 今まで、風雅が見た中で一番の美人。

 部活動見学の時は思わず見惚れ、後で思い返すと自分でも恥ずかしくなるほど、軽薄な近づき方をしてしまった。

 なんとかイメージを払拭しようと思ったが、母の状態も悪くなっていきすぐにそれどころではなくなった。

 ある日、学校から帰ると母が家にいなかった。

 嫌な予感がし、すぐに家の周りを探し回った。

 父にも連絡し、一時間程度、車で探したものの、やはり見つからない。

 警察に連絡するべきだという判断に至り、スマートフォンに手を伸ばした時だった。

「あれ……母さん?」

 母が住宅街の路地を歩いているのが車の中から見えた。

 ホッとしたと同時に、母の隣を誰かが歩いているのが見えた。

 車を降り、母に近づくと、母の隣にいるのが誰なのか、すぐに分かった。

「指宿さん……」

 新菜が風雅の母に寄り添うように、隣を歩いていたのだ。

 新菜は風雅の姿に気付くと、少し驚いた様子で軽く会釈する。


「目の前で転んで……大丈夫って言ってたんですけど、なんだか様子が気になって……」

「そうなんだ……ありがとう」

 続く言葉がみつからない。

 母はぼんやりとした表情を浮かべていて、自分の状況が分かっていないようだった。

 母は風雅の父が車に乗せた。

 風雅の父が新菜も一緒に車で家まで送っていこうとしたが、新菜はすぐ近くだから、と断った。説明もせず帰るのは嫌だ、と思った風雅は、家の前まで送り届けると言うと、新菜は今度は了承した。

 

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