第4話 小さな日常(裏)
――真夜中。
村は、ひどく静かだった。
昼間に子どもたちの笑い声が響いていたのが嘘のように、今は虫の音と木々を揺らす風の音だけが耳に残る。
月が中天にかかり、満月の明るさが、崖の上の草原を青白く照らしていた。
美しい夜だ――だからこそ、不気味でもあった。
教会の奥ではショータと、泊まっていったパーコとリーロが、並んで安らかな寝息を立てていた。
――だが、俺とシスター・バーバは眠ってはいなかった。
「……来たねぇ」
村の入口、崖の上で月光を背にシスター・バーバが低くつぶやいた。
白髪を後ろで束ね、古びた修道服の袖口から小剣を抜くその仕草は、年寄りには似つかわしくない鋭さを帯びていた。かつて『影狩り』と呼ばれた暗殺者。その面影が皺だらけの顔に浮かんでいた。
「六人……いや、七人。報告より少し多いじゃないか。まったく、夜更けに年寄りをこき使うとはいい度胸だよ」
バーバは鼻を鳴らした。その声には一片の揺らぎもない。暗殺者として生きていた頃の声色だ。
「七人……。幸運の数ですよ。……よかったじゃないですか」
俺は剣を腰に差し、淡々と答える。
「ハッ、なんだいそりゃ。こいつらが来てる時点で幸運も何もあったもんじゃないよ!」
バーバは大げさに両手を広げ、乾いた笑みを浮かべた。
崖沿いの小道に、影が静かに揺れた。
王国の『終律派』から放たれた
黒装束に身を包み、月明かりを避けるように忍び寄る一団。その足音は草を踏む音すら立てず、まるで影そのものが動いているようだった。
重い鎧は身につけていない。イマジンが防御壁となるこの世界では、魔具または軽装を纏うのが常だ。
「正面から来る気か……」
「まあ、舐めてくれてるうちは楽でいいさ。さっ、行くよ、ニィさん」
俺とバーバは一歩前に出て、彼らを迎えた。
「こんばんは」
丁寧に挨拶すると、首領と思しき男が鼻で笑った。
「ガセかと思ったが、こんな森の奥地に集落があるとはな。ババアと小僧か。出迎えにしては少し寂しいな」
「すまないねぇ。この村は排他的でね、よそ者は歓迎されないんだよ。……それと、アタシはババアじゃなくバーバだ。短い間だろうが、どうぞよろしく」
バーバは短刀をくるりと回し、にやりと笑った。
そんな軽口を背に、俺はゆっくりと相手の集団に向けて歩を進める。
――次の瞬間、闇が爆ぜた。
二人の猟犬が左右から襲いかかる。月光に煌めく刃が迫る。
だが、俺は一歩も下がらなかった。
滑るように右へ身をひねり、柄頭で相手の顎をはじく。
「がっ……!?」
声が続く間もなく膝蹴りを叩き込み、相手を地に沈める。同時に左から迫った剣を鞘で受ける。そして鞘に刺さったままの相手の剣を引き寄せ、その勢いで体を捻る。
瞬時に抜剣――。
月光を映す銀色の刃が一閃し、相手の首筋を斬り裂いた。鞘は相手の剣に刺さったまま、密偵の手の中に残った。
背後から殺気。
振り向かずに身を沈める。剣閃が髪をかすめた。
イマジンを帯び強化された剣だ。
通常、イマジンは防御壁として機能する。魔法であれ剣であれ、イマジン防壁の防御力を超えた攻撃は肉体を傷つける。
今の剣は、防御壁を持たない俺が受ければ骨ごと断ち切られていただろう。
だが俺の体には、かすりもしない。
振り返りざま敵の喉を突き、音もなくその体を地に倒した。気絶させた最初の敵にも、静かに刃を通し止めを刺す。
月明かりの下、草原に三つの影が横たわっている。残りは四人。
襲撃者たちの動きが一瞬止まった。仲間が三人も倒されたことへの動揺が、その構えに現れていた。
「きっ金属製の武器だと……! 守りを捨ててるのか?」
残った敵の声に困惑が滲む。
金属製の武器は、相手のイマジン防壁をある程度無効化して攻撃できる。だが、その攻撃力の代償として、使用者は自らの防壁を失う。
『意識して金属器を使用する』という行為を世界が認知した瞬間、使用者自身のイマジンが霧散し始めるからだ――そしてそれは二度と戻らない。
金や銀などの例外を除き、一定以上の金属がまとまった器――すなわち金属器を扱うということは、「一生イマジンを使わない」という覚悟を決めるに等しい。
「へえ……。今の攻撃、本当に避けちまったよ。あんた本当に肝が据わってるねぇ」
バーバはそう言いながら下がりざま、小剣を二度閃かせた。
「戦闘中に足が止まるとは、とんだ甘ちゃんだよ!」
密偵二人の喉から同時に血が噴き、崩れ落ちた。
相手の一瞬の動揺も見逃さずに淡々と攻撃をする。そして、血を浴びても眉ひとつ動かさない。
俺はその冷徹さに、一瞬だけ感心した。
――残りは二人。
首領が前に出て、もう一人は警戒しながら距離を取った。
構えた剣には重く鋭い気配がある。
「ほう……その剣筋、ただの田舎者ではないな」
目を細め、鋭い斬撃を放ってくる。
俺は紙一重で回避し、そのまま間合いを詰めた。
風を裂く音が耳をかすめる。何度も死がすり抜けていく。それでも、体は迷いなく動いた。
「その足さばき、間合いの潰し方は……〈流脚〉。……まさか、シンケン流か?」
首領の目が大きく見開かれる。
その驚きには答えず、俺は剣で応じた。刃を滑らせて相手の剣筋を外し、鍔迫り合いに持ち込む。
「ぐっ……!」
首領の腕に力がこもる。だが、俺は呼吸を整え、静かに押し返す。
拮抗した一瞬――敵の背後でバーバの刃が閃き、後方の猟犬が崩れ落ちた。
「残るはあんただけだよ」
低く告げるバーバの言葉に、首領は素早く飛び退き、間合いを取った。
「……くっ、――忍び裂け! 〈
闇に潜む者とは思えぬ大声だ。首領は風のイマジンを纏わせた剣を解き放つ。
これまで隠密を優先し〈身体強化〉のみで戦っていたが――追い詰められ、もはや切り札を晒すしかなかったのだろう。
魔法を放つには、体外のイマジンに『声』を届けねばならない。その名を叫ぶことで、術者の意思は世界に告げられ、魔法が創造される。
魔法名は、その効果を示す。つまりその名を聞けば、ある程度の効果は予測できる。〈風枝剣〉は、剣に風を纏わせると同時に風の枝を伸ばす魔法だろう。
そして名に三文字を持つ魔法――それは、術者の熟練を示す証。
首領の声と同時に剣の周囲がゆらりと歪んだ。
――対して俺は、イマジンが世界に干渉するときの『揺らぎ』が視える。陽炎のように揺れる歪み――それは、イマジンを持つ者には決して見えない、俺だけの世界。
今、男の剣のまわりに揺らぎが収束していく。刀身を覆う風のイマジンは微かに翠色に光り、そこから枝のように薄く引き伸ばされた風の刃が伸びる。風の枝は、刀身ほどの殺傷力はないが、イマジン防壁を持たぬ俺には致命傷となるだろう。
だが――その枝の翠色は夜闇に溶け込み、見えない。昼なら鮮やかに輝くはずの風の色も、月明かりの下では闇に呑まれる。
「小僧、これは避けられんぞ!」
剣が振るわれた瞬間、斬撃の軌道だけでなく、その外側の草木までもが一斉に裂けた。目に見えぬ刃が草原を薙ぎ払う。
闇夜で翠の風が見えない以上、この一撃を避けることは、ほぼ不可能だろう。
……だが、それでも俺には当たらない。
わずかな重心移動で、刃をすべて躱していく。
草が裂ける音、風が唸る音――それらも手がかりだ。
色は見えない。だが、揺らぎは――はっきりと見える。
「ばっ、馬鹿な……。闇に溶け込む、この風の剣を、なぜ……? まさか見えているのか」
「見えては……いない」
短く答え、最後の一歩を踏み込む。
銀色の剣が、風を裂きながら首領の喉元を正確に貫いた。
――静寂。
風が止み、虫の音だけが戻ってくる。
草原には七つの影が横たわっていた。月光が、その光景を冷たく照らしている。
血の匂いが夜気に漂う。
バーバは小剣を拭いながら言った。
「ふん……やるねぇ。まるで若い頃のアタシみたいだよ」
「やめてくださいよ」
俺は苦笑で返す。
「いいねぇ! 元暗殺者のアタシより落ち着いてる。頼りになるねぇ」
バーバはおどけて肩を竦めた。
俺は鞘を拾い、剣を静かに納める。そして、倒れ伏した亡骸に視線を落とした。
胸に残ったのは勝利の昂揚ではなく、ただ静かな虚しさだけだった。
「偵察の頻度が上がってる。まだ噂程度で聖女様の場所も完全には特定されてないみたいだが、移住も考えなくちゃならんかねぇ。しばらく忙しくなるよ」
バーバが少し疲れた顔をしてつぶやいた。
「授業参観でショータに『大人の手伝いをしてる』って褒められたばかりなんです。俺も頑張りますよ」
冗談めかすと、バーバは鼻で笑う。
「『狩りだって村一番。足跡を追うのも、獲物を仕留めるのも誰より早い』――だったかね」
「……」
学校の先生でもある彼女にからかわれ、無言で睨むと、バーバはゲラゲラと笑って背を向ける。
「村の衆に、報告に行ってくるよ。――〈
そう言い残し、彼女の姿は影に溶けるように消えた。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。
この村の住人たちは、表向きこそ農民や猟師だが、その多くは『聖導派』のボーダル辺境伯に仕える騎士である。
普段は畑を耕し、狩りをしながら、実際には聖女と勇者を匿い、守る盾として動いている。
今夜の襲撃を察知した大人たちは、急ぎ集まって対策を練っていた。
だからこそ――子どもたちは、教会に泊まることになった。
それが偶然でないことを知るのは、俺と大人たちだけだ。
俺は月を見上げた。
あの満月の下で、子どもたちは安らかに眠っている。
何も知らずに。
……それでいい。
◇
教会に戻ると、奥の部屋から子どもたちの寝息がかすかに聞こえた。
「……おかえりなさい」
黒髪の少女が、起きて待っていた。
月明かりが窓から差し込み、彼女の黒髪を淡く照らす。心配そうな瞳が、じっと俺を見つめていた。
次の瞬間、彼女は飛びつくように抱きしめてきて、俺の体を確かめる。
腕、胸、背中、足――どこかに傷がないかを、必死に探すように。
傷がないとわかると、それでも念のためと『癒しの魔法』を施してきた。
彼女の手が淡い光を帯び、あたたかな感触が体を包んだ。
それは聖女にしか扱えぬ光の奇跡だった。
大げさだなと思いつつも――悪い気はしない。されるがまま目を閉じながら、胸の奥で静かに誓う。
――守る。何度でも。
それが、俺に託された役目だから。
彼女の頭をそっと撫でると、彼女は小さく頷き、俺の胸に顔を埋めた。
窓の外では、月が静かに村を照らしていた。
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