1話 音楽の街
第一章 音が多すぎる街で
音大に通い始めて二年。
僕はまだ、この街の“音の密度”に慣れていない。
大学の最寄り駅を降りると、もうそこから音楽が始まっている。
駅前の広場では、毎日どこかの学科が勝手に練習しているからだ。
バイオリン科は情熱的に、サックス科はやや攻撃的に、声楽科はだいたい突然歌い出す。
もはや「音大」ではなく「音街」と言ったほうが正しい気すらしてくる。
朝の空気の中で、僕はゆっくり大学へ向かう。
歩きながら、ふと耳に飛び込んでくる音たちは、どれも“すこし不自然な自然音”だ。
鳥のさえずりに混じって、なぜか和音の響きがする。
遠くの工事音は、なぜかちょっとだけ8ビートっぽい。
全ての音が微妙に“楽器寄り”に聞こえてくる。
これに関して、音大の友達に聞いたら、
「それはね、湊が耳を鍛えすぎた証拠だよ」
と言われた。
いや、むしろ疲れてる証拠だろうと思うのだが、音大生は何でも“いい方向”に解釈する傾向がある。
特に努力できているわけでもないのに、心だけは常に前向きなのが音大生の特徴だ。
大学の正門の手前にある細い通りは、なぜか“変ロ通り”と呼ばれている。
もちろん、変ロ(B♭)が鳴っているわけではない。
たぶん誰かが、初見でその通りを歩いたときにたまたまB♭を聞いたのだろう。
その偶然のせいで、この通りは永久に“変ロ”を背負うことになった。
朝の変ロ通りを歩いていると、
「今、変ロ通ったよね?」
と隣の学生が真剣に話していたりする。
僕はいつも黙ってうなずくだけだ。
本音を言うと、僕の耳には一度も変ロが聞こえたことがない。
でも、ここで「いや聞こえないよ」と言うと、
「湊、それは耳の使い方がまだ甘いよ」
と絶対言われるので、言わないようにしている。
音大生の“聞こえたことにする能力”は、もはや特殊能力の類だ。
校舎に入ると、さらに音の密度が増す。
廊下を歩くだけで、音の海を泳いでいる気分になる。
練習室のドアのすき間から漏れ出る音が、それぞれの人生をちょっとだけ背負っていて、
その濃度に軽く酔いそうになる。
右の部屋ではピアノ科の一年生が、必死でハノンを弾いている。
左の部屋からはバイオリン科の先輩が、若干イライラしながら音階練習をしている。
その隣では声楽科の誰かが発声練習をしていて、
「アァ〜〜〜↑〜〜〜」
と、突然空気を切り裂く声が響く。
僕は歩きながら、毎回思う。
「この建物、絶対“静寂”の排除に成功してるよな」
音大には静けさが存在しない。
“静寂”はこの校舎に入る前の時点で玄関に置いていく必要がある。
廊下で立ち止まると、壁が微かに震えているのがわかる。
練習室の音圧が廊下全体に伝わっているからだ。
いつかこの校舎は、音に押しつぶされて倒壊するのではないか。
そんな心配すら湧いてくる。
それでも、僕たちは毎日ここに来る。
だって“音”をやりたいからだ。
そして“音”に苦しんでいるからだ。
音大生とは、
音に追われ、音に疲れ、音で笑い、音で泣き、
それでも翌日にはまた音の中に戻る人種
なのだと思う。
僕は重々しい音をまとった廊下を歩きながら、
今日もまた自分の音と向き合うための練習室を探す。
ただ、探す前からすでに疲れている。
これも音大生あるあるだ。
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