第25話

エミリアの断罪から数日が過ぎ、王国を揺るがした一連の騒動は、ようやく静かに幕を下ろそうとしていた。

リーチュの離宮にも、すっかり以前の穏やかな日常が戻っていた。


特効薬の量産体制は王宮の薬師たちに引き継がれ、リーチュは再び、自分の薬草園で土をいじり、新しいハーブティーのブレンドを考えるという、平和な日々を送っていた。

そして、その隣には、当たり前のように、アシュトンの姿があった。


「ねえ、アシュトン。この新しいハーブクッキー、試してみてくださる?」


「……ああ」


テラスでの、いつものお茶会。

だが、その空気は、以前とは比べ物にならないほど、甘く、満ち足りたものに変わっていた。


その、あまりに穏やかな午後を破ったのは、一人の予期せぬ訪問者だった。


供も連れず、華美な装飾のない、質素な馬に乗って、たった一人で。

お忍びの旅装束に身を包んではいたが、その気品と佇まいは、隠しようもなく、彼の身分を物語っていた。

ジークフリート・フォン・エルベシュタット。

その人であった。


「……!」


彼の姿を認めた瞬間、アシュトンの纏う空気が、一瞬で凍りついた。

彼は、即座に立ち上がると、リーチュを守るようにその前に立ち、鋭い視線で侵入者を睨みつける。


しかし、リーチュは、そんなアシュトンの逞しい腕に、そっと自分の手を重ねた。


「アシュトン、大丈夫よ」


その声は、静かで、落ち着いていた。


「少しだけ、二人で話をさせてくださる?」


アシュトンは、一瞬、ためらった。

この男に、もう二度とリーチュを近づけさせたくはない。

だが、彼女の、全てを分かっているというような、穏やかで強い瞳を見て、黙って頷いた。

彼は、リーチュの判断を、誰よりも信頼している。

アシュトンは、何も言わずにその場を離れると、テラスから少し離れた木陰に立ち、静かに二人を見守り始めた。


リーチュは、ジークフリートを、いつものテラスの席へと案内した。

しかし、彼女は、新しいお茶を淹れようとはしなかった。

これは、お茶会ではない。

その無言の意思表示を、ジークフリートも痛いほど理解していた。

気まずい沈黙が、二人の間に落ちる。


やがて、その沈黙を破るように、ジークフリートがおもむろに席を立った。

そして、彼は、リーチュの目の前で、ためらうことなく膝をつくと、深く、深く、頭を下げたのだ。


「……リーチュ。いや、クライネルト嬢」


その声は、震えていた。


「本当に、すまなかった」


それは、王太子としてではない。

ただ一人の、愚かな男としての、心からの謝罪だった。


「私は、君の何も見ていなかった。君が何を大切にし、何に情熱を傾けているのか、理解しようとすらしなかった。ただ、自分の勝手な理想を君に押し付け、その本質を……君の輝きを、見ようともせずに、傷つけた」


彼は、顔を上げないまま、言葉を続ける。


「エミリアのこと、そしてポーションのこと……私の、あまりに愚かな判断が、君を、そしてこの国を、どれほど危険な状況に晒したか。今となっては、弁解の言葉も、見つからない」


リーチュは、彼のその痛切な告白を、ただ静かに聞いていた。

やがて、彼女は、穏やかな声で言った。


「顔を上げてください、殿下」


ジークフリートが、おそるおそる顔を上げると、そこにいたのは、彼を軽蔑するでも、憐れむでもない、ただ静かな眼差しを向けるリーチュの姿だった。


「もう、全て終わったことですわ。過去を悔やんでも、何も始まりません」


彼女の声には、責める響きは、ひとかけらもなかった。


「わたくしは、殿下がお決めになったことを、許します。ですから、殿下も、ご自身の過ちをご自身で許し、そして、前を向いてくださいませ」


それは、同情ではない。

ましてや、愛の残り火などでは、断じてない。

ただ、一人の人間が、過ちを犯したもう一人の人間に向ける、対等で、力強いエールだった。


「わたくしには、わたくしの進むべき道があります。薬師として、この知識で、一人でも多くの人を救うという道が」


そして、彼女は、静かに、しかしはっきりと続けた。


「……殿下には、殿下にしか歩めない道があるはずです。この国の未来を導く、次期国王としてのお役目が。わたくしたちの道は、もう、二度と交わることはありませんわ」


その言葉は、残酷なほどの、完全な決別宣言。

しかし、ジークフリートの心には、不思議と、安堵の気持ちが広がっていた。


「……ああ。そうだな」


彼は、ようやく立ち上がると、憑き物が落ちたような、晴れやかな顔で微笑んだ。


「ありがとう、リーチュ。……そして、達者で」


それが、彼が彼女にかけた、最後の言葉だった。

ジークフリートは、一度だけ振り返ると、静かに離宮を去っていく。


その小さくなっていく背中を、リーチュは、静かに見送っていた。

遠くの木陰から、アシュトンが、ゆっくりと彼女の元へ戻ってくる。

そして、何も言わずに、そっと、彼女の隣に立った。


過去は、完全に過去になった。

もう、振り返る必要はない。

二人は、どこまでも広がる青空を見上げ、これから始まる、未来だけを見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る