第18話

隣国を襲う、謎の伝染病。

その脅威が刻一刻と迫る中、リーチュの離宮での穏やかな日常は、まだ続いていた。

しかし、その日常に、小さな、しかし確実な変化の兆しが現れる。

父であるクライネルト公爵が、離宮を訪れる頻度が、にわかに増えたのだ。


その日も、公爵は、公務の合間を縫って娘の顔を見にやってきた。

だが、その表情は、いつもの親バカな笑顔ではなく、深い苦悩の影に覆われている。


「お父様、またいらしたのですか。……何かございましたの? 最近、ずっと顔色が優れませんわ」


ハーブティーを差し出しながら、リーチュが心配そうに尋ねる。

その、全てを見透かすような真っ直ぐな瞳に、アルブレヒトは観念したように、重いため息をついた。

この聡明な娘に、いつまでも隠し通せるものではない。


「……リーチュ。お前に、話しておかねばならないことがある」


公爵は、隣国を襲っている『灰死病』のこと、その唯一の特効薬が『月光草』であること、そして、その幻の薬草が、我々の領地の奥深く、月光山脈の麓に自生している可能性が高いことを、静かに、しかし重々しく語り始めた。


「ですが、お父様。それはつまり、国が救われる道があるということでは……!」


リーチュの目に希望の色が浮かぶ。

しかし、公爵は、苦渋に満ちた顔で首を横に振った。


「だが、お前も知っているだろう。月光草の自生地が、どれほど危険な場所か。そして、その扱いが、どれほど難しいものか。……私は、お前を危険な目に遭わせるわけにはいかんのだ」


父の言葉に、リーチュは息を呑んだ。


その頃、王宮では、痺れを切らしたジークフリートが、無謀な決断を下していた。


「これ以上、座して待つことはできん! 私が自ら精鋭部隊を率い、クライネルト領の月光山脈へ向かう! 特効薬は、必ずこの手で持ち帰ってみせる!」


評議室でそう宣言するジークフリートに、大臣たちが慌てて諌めの言葉を投げかける。


「殿下、お待ちください!あまりに無謀です!」


「専門家のいない状況で、幻の薬草が見つかるとは思えません!」


しかし、焦りと、そしてリーチュへの対抗心に駆られた王太子は、誰の言葉にも耳を貸そうとはしなかった。


その情報は、公爵家の連絡網を通じて、すぐに離宮のリーチュの元へもたらされた。

父の話と、王太子の無謀な行動。

二つの事実が、リーチュの中で一つに繋がった瞬間、彼女の纏う空気が、がらりと変わった。


「……お父様」


リーチュは、これまで見せたことのないほど、真剣な表情で父を見据えた。


「今すぐ、王太子殿下をお止めください」


「リーチュ……?」


「月光草は、ただの薬草ではございません。わたくしが、一番よく知っております。知識のない者がむやみに触れれば、薬効どころか猛毒となる危険な植物。それに、文献にある自生地は、切り立った崖の上。普通の人間が、たどり着けるような場所ではないはずです」


リーチュの言葉は、どこまでも冷静で、薬師としての確かな知識に裏打ちされていた。


「王太子殿下が軍を率いて山を捜索しても、薬草を見つける前に、多大な犠牲者が出るだけですわ。それでは、あまりにも無意味な、無駄死にです」


彼女は、すっ、と立ち上がると、父の前に進み出た。

その瞳には、一点の曇りもない、揺るぎない決意が宿っている。


「その薬草の専門家は、この国に、いえ、おそらく、この世界にわたくししかおりません」


「……!」


「月光草を見つけ出し、正しく採取し、そして確実に特効薬にできるのも、わたくしだけです」


そして、彼女は、深く、静かに頭を下げた。


「行かせてください、お父様。この国を救うために。……わたくしに、任せてください」


それは、趣味の世界に生きてきた少女が、初めて、国を背負う覚悟を決めた瞬間だった。

アルブレヒトは、言葉を失い、ただ成長した娘の姿を見つめていた。


その時。

離宮の庭に、一頭の馬が静かに入ってきた。

アシュトンだ。

彼は、公爵から事前に連絡を受け、全てを察して駆けつけてきたのだ。


アシュトンは、リーチュの隣に立つと、彼女の覚悟に満ちた横顔を見つめ、そして、公爵に向かって、ただ一言、こう告げた。


「公爵閣下。彼女が行くのであれば、俺が必ずお守りします」


その声には、彼の持つ全てを懸けた、固い誓いが込められていた。


愛する娘の、揺るぎない瞳。

そして、その隣で、盾となることを誓う、王国最強の騎士。

その姿を見て、アルブレヒトは、ついに覚悟を決めた。


彼は、傍らの執事に命じ、王宮へ至急の連絡を入れさせる。

王太子殿下の、無謀な出立を、直ちに差し止めるように、と。


「……分かった。リーチュ、お前の意志を尊重しよう」


そして、娘に向き直ると、震える声で言った。


「だが、一つだけ約束しろ。必ず、必ず、生きて帰ってくると」


その言葉に、リーチュとアシュトンは、同時に、力強く頷いた。

王国の命運は、今、この二人の双肩にかかったのだ。

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