第16話
雨上がりの離宮の庭は、まるで生まれ変わったかのように、生命力に満ち溢れていた。
「……リーチュ」
「……はい、アシュトン」
東屋の柱に寄りかかり、庭を眺めながら、二人はぽつり、ぽつりと、ぎこちなくお互いの名前を呼び合っていた。
そのたびに、くすぐったいような、甘いような、不思議な感覚が胸に広がる。
これまでのお茶会とは明らかに違う、新しい関係の始まり。
リーチュもアシュトンも、その変化に戸惑いながらも、心地よさを感じていた。
この平和で穏やかな時間が、永遠に続けばいい。
リーチュは、心の底からそう願っていた。
だが、彼女のあずかり知らぬ王宮では、その穏やかな日常を根底から揺るがす、暗い嵐が吹き荒れようとしていた。
◇
王宮、評議室。
そこには、国王陛下を中心に、王太子ジークフリート、クライネルト公爵をはじめとする王国の重臣たちが、重い表情で席に着いていた。
部屋の空気は、鉛のように重く、張り詰めている。
緊急で招集されたこの会議の、ただならぬ雰囲気を物語っていた。
やがて、重厚な扉が開き、一人の男が部屋に入ってきた。
隣国との国境を警備する部隊の伝令兵だ。
その顔は土気色で、旅の疲れ以上に、何か恐ろしいものを見てきたかのように怯えている。
「申し上げます!」
床に膝をつき、伝令兵は震える声で報告を始めた。
「隣国、ガルニア王国にて、原因不明の熱病が、猛威を振るっているとの報せにございます!」
評議室に、緊張が走る。
「詳しく申せ」
国王の厳かな声に、伝令兵はごくりと喉を鳴らした。
「はっ! 病は、まず高熱から始まり、全身に赤い発疹が現れます。そして、咳が止まらなくなり……発症からわずか数日で、死に至るとのこと。感染力も凄まじく、すでにガルニア王国の王都は、機能が完全に麻痺している模様にございます!」
大臣たちから、どよめきと呻きが漏れた。
「街には……街には、行き倒れた人々の亡骸が溢れ、燃やすための薪すら足りず……もはや、この世の地獄絵図と……!」
伝令兵の報告は、それほどまでに衝撃的だった。
未知の伝染病。凄まじい感染力。高い致死率。
それは、一つの国を滅ぼしかねない、未曾有の脅威だった。
報告が終わると、評議室は割れんばかりの議論の渦に巻き込まれた。
「直ちに国境を完全封鎖すべきです! 一人たりとも、国内に入れてはなりませんぞ!」
軍務大臣が、声を荒げて叫ぶ。
「馬鹿を言うな! ガルニアとの交易を止めれば、我が国の経済も大打撃を受けるのだぞ!」
財務大臣が、顔を真っ赤にして反論する。
「ですが、病が国内に入り込めば、経済どころの話では済まなくなります!」
「まずは、人道的な見地から、医師や薬師を派遣するべきではないか?」
「危険すぎます! 派遣した者たちが、病を持ち帰るだけですぞ!」
意見は真っ向から対立し、会議は完全に紛糾した。
ジークフリートは、その喧々囂々の議論を、ただ歯噛みしながら聞いていることしかできなかった。
王太子として、何か画期的な打開策を示さねばならない。
しかし、焦れば焦るほど、頭は空回りするばかりだった。
その時。
今まで静かに議論の行方を見守っていた、クライネルト公爵アルブレヒトが、重々しく口を開いた。
「……伝令兵に聞く」
その静かだが、よく通る声に、騒がしかった議場が水を打ったように静まり返る。
「その病の、最初の発生源はどこか、分かっているのか?」
「はっ! ガルニア王国の南端、『月光山脈』の麓にある、小さな村からだと聞いております」
「……月光山脈……」
クライネルト公爵は、その地名を、何かを確かめるように繰り返した。
彼の眉間に、深い皺が刻まれる。
その表情に、ジークフリートは得体のしれない、不吉な予感を覚えた。
結局、その日の会議では、国境の警備を強化し、情報収集に努めるという、ありきたりの結論しか出なかった。
重臣たちが退出した後も、ジークフリートは一人、席を立てずにいた。
国を襲う、見えざる脅威。
有効な手立てを何一つ打てない、己の無力さ。
彼の心は、暗く、重い雲に覆われていた。
そして、その絶望的な状況を打開する鍵が、かつて自分が捨てた元婚約者の手の中にあることを、今の彼はまだ、知る由もなかった。
物語は、穏やかな恋愛模様から一転し、国家の存亡をかけた、新たな局面へと突入しようとしていた。
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