第16話

雨上がりの離宮の庭は、まるで生まれ変わったかのように、生命力に満ち溢れていた。


「……リーチュ」


「……はい、アシュトン」


東屋の柱に寄りかかり、庭を眺めながら、二人はぽつり、ぽつりと、ぎこちなくお互いの名前を呼び合っていた。

そのたびに、くすぐったいような、甘いような、不思議な感覚が胸に広がる。

これまでのお茶会とは明らかに違う、新しい関係の始まり。

リーチュもアシュトンも、その変化に戸惑いながらも、心地よさを感じていた。


この平和で穏やかな時間が、永遠に続けばいい。

リーチュは、心の底からそう願っていた。

だが、彼女のあずかり知らぬ王宮では、その穏やかな日常を根底から揺るがす、暗い嵐が吹き荒れようとしていた。



王宮、評議室。

そこには、国王陛下を中心に、王太子ジークフリート、クライネルト公爵をはじめとする王国の重臣たちが、重い表情で席に着いていた。

部屋の空気は、鉛のように重く、張り詰めている。

緊急で招集されたこの会議の、ただならぬ雰囲気を物語っていた。


やがて、重厚な扉が開き、一人の男が部屋に入ってきた。

隣国との国境を警備する部隊の伝令兵だ。

その顔は土気色で、旅の疲れ以上に、何か恐ろしいものを見てきたかのように怯えている。


「申し上げます!」


床に膝をつき、伝令兵は震える声で報告を始めた。


「隣国、ガルニア王国にて、原因不明の熱病が、猛威を振るっているとの報せにございます!」


評議室に、緊張が走る。


「詳しく申せ」


国王の厳かな声に、伝令兵はごくりと喉を鳴らした。


「はっ! 病は、まず高熱から始まり、全身に赤い発疹が現れます。そして、咳が止まらなくなり……発症からわずか数日で、死に至るとのこと。感染力も凄まじく、すでにガルニア王国の王都は、機能が完全に麻痺している模様にございます!」


大臣たちから、どよめきと呻きが漏れた。


「街には……街には、行き倒れた人々の亡骸が溢れ、燃やすための薪すら足りず……もはや、この世の地獄絵図と……!」


伝令兵の報告は、それほどまでに衝撃的だった。

未知の伝染病。凄まじい感染力。高い致死率。

それは、一つの国を滅ぼしかねない、未曾有の脅威だった。


報告が終わると、評議室は割れんばかりの議論の渦に巻き込まれた。


「直ちに国境を完全封鎖すべきです! 一人たりとも、国内に入れてはなりませんぞ!」


軍務大臣が、声を荒げて叫ぶ。


「馬鹿を言うな! ガルニアとの交易を止めれば、我が国の経済も大打撃を受けるのだぞ!」


財務大臣が、顔を真っ赤にして反論する。


「ですが、病が国内に入り込めば、経済どころの話では済まなくなります!」


「まずは、人道的な見地から、医師や薬師を派遣するべきではないか?」


「危険すぎます! 派遣した者たちが、病を持ち帰るだけですぞ!」


意見は真っ向から対立し、会議は完全に紛糾した。

ジークフリートは、その喧々囂々の議論を、ただ歯噛みしながら聞いていることしかできなかった。

王太子として、何か画期的な打開策を示さねばならない。

しかし、焦れば焦るほど、頭は空回りするばかりだった。


その時。

今まで静かに議論の行方を見守っていた、クライネルト公爵アルブレヒトが、重々しく口を開いた。


「……伝令兵に聞く」


その静かだが、よく通る声に、騒がしかった議場が水を打ったように静まり返る。


「その病の、最初の発生源はどこか、分かっているのか?」


「はっ! ガルニア王国の南端、『月光山脈』の麓にある、小さな村からだと聞いております」


「……月光山脈……」


クライネルト公爵は、その地名を、何かを確かめるように繰り返した。

彼の眉間に、深い皺が刻まれる。

その表情に、ジークフリートは得体のしれない、不吉な予感を覚えた。


結局、その日の会議では、国境の警備を強化し、情報収集に努めるという、ありきたりの結論しか出なかった。

重臣たちが退出した後も、ジークフリートは一人、席を立てずにいた。


国を襲う、見えざる脅威。

有効な手立てを何一つ打てない、己の無力さ。

彼の心は、暗く、重い雲に覆われていた。


そして、その絶望的な状況を打開する鍵が、かつて自分が捨てた元婚約者の手の中にあることを、今の彼はまだ、知る由もなかった。

物語は、穏やかな恋愛模様から一転し、国家の存亡をかけた、新たな局面へと突入しようとしていた。

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