第10話
リーチュが離宮での生活を始めてから、一月が過ぎた。
彼女の情熱の甲斐あって、離宮の庭は、もはやただの庭ではなかった。
南の斜面にはカモミールの白い花が風に揺れ、東の生垣にはレモンバームが爽やかな香りを放つ。
ガラス張りの温室では、様々な希少薬草が生き生きと葉を伸ばしていた。
薬草園の拡張作業は、離宮の使用人たち総出で行われた。
誰もが泥だらけになりながらも、その顔は充実感に満ちていたが、さすがに連日の肉体労働に、疲労の色は隠せない。
「皆さん、お疲れでしょう。とっておきの差し入れを持ってきましたわ」
ある日の午後、リーチュは大きな寸胴鍋を抱えて、休憩中の使用人たちの元へやってきた。
鍋の中身は、琥珀色に輝く液体。
蜂蜜と柑橘系のハーブが混じった、甘酸っぱい香りがふわりと漂う。
「これは?」
「わたくし特製の、疲労回復ポーションよ。滋養強壮効果のある薬草を、蜂蜜と果汁で煮詰めてみたの。さあ、温かいうちにどうぞ」
リーチュが一人一人にカップを配ると、使用人たちは恐縮しながらも、その液体を口にした。
「……! おいしい!」
「あら、なんだか体の芯からぽかぽかしてきましたわ」
「不思議だ。さっきまでの疲れが、すっと軽くなったような……」
口々に上がる賞賛の声。
その効果はてきめんで、ポーションを飲んだ使用人たちは、午後からの作業を驚くほど軽快にこなしてしまった。
その様子を、少し離れた場所から、離宮を任されている老執事のゼバスが、目を細めて見ていた。
彼は、かつてクライネルト公爵の右腕として、領地の商業を取り仕切っていたほどの切れ者である。
(このポーションは、ただものではない……。お嬢様のこの類まれなる才能を、この離宮の中だけで埋もれさせておくのは、あまりにもったいない)
その夜、ゼバスはリーチュの部屋を訪れた。
「お嬢様。本日のポーション、誠に素晴らしい出来栄えでございました。皆、大変喜んでおりましたぞ」
「ふふ、そう? 良かったわ」
「つきましては、一つご提案が。余った分は、わたくしが有効活用させていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん構わないわよ。捨てるくらいなら、誰かの役に立った方がいいもの」
リーチュは、あっさりと許可した。
まさか、その「有効活用」が、後に王国中を巻き込む大騒動に発展するとは、夢にも思わずに。
数日後。
ゼバスは、長年の付き合いがある商人マルコを、人目を忍んで離宮に呼びつけた。
「ゼバス殿、このような場所に呼び出すとは、一体どのようなご用件で?」
恰幅のいい商人マルコが、いぶかしげに尋ねる。
ゼバスは、厳かな手つきで、一つの小さなガラス瓶を取り出した。
中には、あの琥珀色のポーションが詰められている。
「マルコ殿。これを、君の店で売ってみてはくれんか」
「はぁ……これは、一体?」
「我が主が、気まぐれで作られた薬だ。効能は、疲労回復。効果は、この私が保証しよう」
マルコは、半信半疑だった。
貴族の令嬢が作る、趣味の薬。
正直、あまり期待はできない。
しかし、あのゼバスがここまで言うからには、何かあるのかもしれない。
「……わかりました。お預かりしましょう」
マルコは、そのポーションを十数本ほど仕入れ、自分の店に並べてみることにした。
ラベルには、ゼバスの指示通り、リーチュのイニシャルである『R』の文字と、彼女の好きなカモミールの花の絵だけを描いた、シンプルなものを貼り付けた。
これが後に、『リーチュ印』と呼ばれることになるシンボルである。
最初は、誰もその名もなきポーションに注目しなかった。
しかし、ある日、港で働く一人の屈強な荷揚げ労働者が、気休めのつもりでそれを一本、買っていった。
翌朝。
男は、自分の体の変化に度肝を抜かれた。
昨日まで鉛のように重かった体が、羽のように軽い。
長年悩まされていた腰の痛みが、嘘のように消えている。
「お、おい! マルコの店で売ってる、あの花の絵の薬、とんでもねえぞ!」
男の言葉を皮切りに、噂は瞬く間に港町中に広まった。
「うちの亭主も飲んだら、次の日、別人みたいに元気になったんだよ!」
「夜なべ仕事の前に飲むと、集中力が全然違うんだ!」
「これは魔法の薬だ!」
マルコの店には、ポーションを求める客が殺到した。
商品は、あっという間に売り切れる。
慌ててゼバスに追加の納品を頼むと、ゼバスはにやりと笑い、リーチュの元へ向かった。
「お嬢様。皆、お嬢様のポーションが、また飲みたいと申しております。もしよろしければ、また作っていただけませんかな?」
「まあ、嬉しい! ええ、喜んで!」
リーチュは、自分の作ったもので皆が喜んでくれることが、ただただ嬉しかった。
彼女は善意100パーセントで、再び大鍋に火をかける。
まさかそのポーションが、高値で市場に流通しているなどとは、つゆほども知らずに。
そして、その噂は、商人や旅人たちの口を通して、ついに王都にまで届き始めていた。
王都のとある酒場。
カウンターでエールを呷っていた男たちが、興奮気味に話している。
「おい、聞いたか? 最近出回ってる『リーチュ印』のポーションの話」
「ああ、知ってるぜ! なんでも、どんな疲れも一発で吹き飛ぶ奇跡の薬だってな」
「一体、どこのどいつが作ってるんだろうな。見つけたら、樽ごと買い占めてやるんだが」
その時、彼らの隣の席で黙って酒を飲んでいた男が、ふと顔を上げた。
その男が着ていたのは、王国騎士団の制服だった。
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