第5話

「……静かにしてなさい。動くと血が止まらないわよ」


リーチュは、すり潰してペースト状になった銀露草の葉を、慣れた手つきで騎士の傷口に塗り込んでいく。

その冷たさに、意識を失っていた男の瞼が、かすかに震えた。


「……ぅ……」


うっすらと開かれた灰色の瞳が、ぼんやりとリーチュの顔を捉える。

知らない女。ここはどこだ。自分は確か、魔物と……。


「……誰だ……貴様……」


絞り出すような低い声。

全身に警戒心をみなぎらせ、男は起き上がろうと身じろぎした。


「うるさいわね。患者は黙って治療を受けていればいいのよ」


リーチュは、ぴしゃりと言い放った。

そして、自分のドレスの裾を躊躇なく引き裂くと、即席の包帯代わりにして、薬草を塗り込んだ箇所を手早く固定していく。

そのあまりに堂々とした態度と、澱みない手つきに、男は再び抵抗する気力を失い、重い瞼を閉ざした。


「さて、と。応急処置は済んだけど、ここからどうしましょうか」


リーチュは腕を組み、ぐったりとした大男を見下ろして唸った。

一人でこの巨体を離宮まで運ぶのは、どう考えても不可能だ。


「仕方ないわね……。ハンナー! ゼバスー! 誰かいるー!?」


森の中に、貴族令嬢にあるまじき、野太い声が響き渡った。

しばらくすると、森の茂みがガサガサと揺れ、血相を変えた侍女のハンナと、数人の庭師が駆けつけてきた。


「リーチュ様! ご無事でしたか! 一体、何が……ひっ!?」


ハンナは、血を流して倒れている騎士の姿を認め、小さな悲鳴を上げた。

そして、その顔をまじまじと見た瞬間、さらに顔色を失う。


「こ、この方は……『氷の騎士』アシュトン・バレフォール騎士団長ではございませんか!?」


「へえ、そんな偉い人なの。道理で上等な服を着ていると思ったわ」


リーチュは全く興味がなさそうだ。


「それより、早くこの人を離宮の客室に運んで。このままでは死んでしまうわよ」


「そ、そんな、騎士団の方をお連れしてよろしいのでしょうか!?」


「いいから、早く!」


リーチュの一喝に、使用人たちは慌てて屈強な騎士団長を担ぎ上げた。

ずしり、とその重みに庭師たちが呻き声を上げる。

こうして、氷の騎士は、まるで森で拾われた傷ついた子犬のように、リーチュの城へと運び込まれていったのだった。


離宮の客室。

ふかふかのベッドに寝かされたアシュトンの周りを、リーチュが忙しなく動き回っていた。


「ハンナ、お湯と清潔な布をたくさん。それから、わたくしの薬草室から、3番の棚にある軟膏と5番の棚にある消毒液を持ってきて」


的確な指示に使用人たちが動く。

リーチュは自らの手で、アシュトンの血に汚れた制服を注意深く脱がせると、煎じた薬草液で傷口を丁寧に清めていく。

幸い、骨に異常はなさそうだ。

特製の軟膏をたっぷりと塗り込み、新しい包帯をきつく巻き直すと、治療はようやく一段落した。


「……ふぅ。こんなところかしら」


リーチュが額の汗を拭った、ちょうどその時。

ベッドの上のアシュトンが、再びゆっくりと目を開けた。


今度は、先ほどよりも意識がはっきりしているようだ。

彼は鋭い灰色の瞳で、用心深く部屋の中を見渡した。

知らない天井。柔らかなベッド。そして、ベッドの傍らに立つ、見知らぬ女。


「……ここは、どこだ」


「わたくしの離宮よ。あなたは森で倒れていたの。覚えてる?」


リーチュの言葉に、アシュトンは演習中の出来事を思い出す。

魔物のこと、部下のこと……。


「部下たちは……」


「さあ? わたくしが拾ったのは、あなただけよ」


ぶっきらぼうな答えに、アシュトンは眉をひそめた。

彼はゆっくりと身を起こそうとするが、脇腹に走る激痛に顔を歪める。


「動かないで。傷が開くわよ。一晩は絶対安静」


「……命令するな」


「これは命令ではなく、忠告よ。死にたくなければ、大人しくしていなさい」


一歩も引かないリーチュの態度に、アシュトンはぐ、と言葉に詰まった。

今まで、彼にここまで堂々と意見する女がいただろうか。


その時、リーチュが小さなカップを差し出してきた。

中からは、ふわりと薬草の混じった独特の香りが立ち上っている。


「喉が渇いたでしょう。回復を早める薬草茶よ。少し苦いけど、我慢して飲んで」


アシュトンは、警戒心を解かずにそのカップを見つめた。

毒の可能性も捨てきれない。

しかし、喉は確かにカラカラに乾ききっていた。


(……ええい、ままよ)


彼は覚悟を決めると、リーチュの手からカップを受け取り、中身をゆっくりと口に含んだ。


その瞬間、アシュトンの灰色の瞳が、わずかに見開かれた。


(……味が、する)


アシュトン・バレフォールは、極度の味音痴だった。

生まれつき、味覚というものがほとんど機能していないのだ。

彼にとって、食事とは単なる栄養補給の作業であり、何を口にしても砂を噛むような感覚しかしない。

特に、砂糖の甘ったるさは拷問に近く、彼は甘いものを蛇蝎の如く嫌っていた。


だが、今、口の中に広がっているこの液体は、違った。

舌を刺す、鮮烈な苦味。

鼻を抜ける、いくつもの薬草が混じり合った複雑な香り。

かすかに感じる、土のような匂い。


それは、決して「美味しい」と表現できるものではないのかもしれない。

だが、アシュトンにとって、それは人生で初めて明確に感じた「味」だった。

衝撃が、彼の全身を貫いた。


アシュトンは、無言のまま、カップに残っていたハーブティーを一気に飲み干した。

そして、空になったカップを、ぶっきらぼうにリーチュへと突き出す。


「……おかわりだ」


「はぁ?」


リーチュは、呆気に取られてアシュトンを見た。

礼も言わず、いきなりおかわり?

なんて傲慢な男だろうか。


「感謝の言葉の一つもないわけ? それに、そんなにがぶがぶ飲むものでもないのだけれど」


「いいから、早くしろ」


有無を言わせぬその口調に、リーチュはため息をつきながらも、近くに置いてあったティーポットを手に取った。

再びカップに注がれたハーブティーを、アシュトンはまたしても一瞬で飲み干してしまう。

そして、三度、空のカップを突き出した。


「……」


「……まだ飲むの?」


こく、と無言で頷くアシュトン。

その目は、今まで見たこともないほど真剣だった。


(……何なの、この人。面白いわね)


リーチュは、呆れを通り越して、目の前の氷の騎士に奇妙な興味を抱き始めていた。

ただの無愛想な堅物かと思っていたが、どうやら、それだけではないらしい。


結局その日、アシュトンは、リーチュが用意したティーポットを、一人で空にしてしまったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る