婚約破棄されたので、とりあえず王太子のことは忘れます!

パリパリかぷちーの

第1話

きらびやかなシャンデリアが眩い光を放ち、優雅なワルツがホールに満ちている。


王立学園の卒業記念パーティー。

これからの王国を担う若き貴族たちが、着飾って集う華やかな社交の場だ。


(……あー、帰りたい)


そんな喧騒の片隅で、クライネルト公爵家が一人娘、リーチュ・フォン・クライネルトは、ただひたすらに願っていた。

今すぐこの場から消え去り、自室のふかふかのベッドにダイブしたい、と。


「リーチュ様、何かお飲み物でもいかがですか?」


「……結構ですわ」


侍女の気遣いを一言で退け、リーチュは壁の装飾と一体化することに全神経を集中させる。

今日のドレスは深紅。炎のような情熱的な色だ。

しかし、それを着ている本人の心は、極北の氷原のように静まり返っていた。


(そもそも、何が悲しくてこんなところに突っ立っていなければならないのよ)


理由はわかっている。

王太子ジークフリート・フォン・エルベシュタットの婚約者。

その肩書が、彼女をこの場に縫い付けていた。


(婚約者、ねぇ……)


ちらり、とホールの中心に視線を送る。

そこには、人だかりの中心で輝くような笑みを浮かべる婚約者の姿があった。

そして、その隣には……。


(出たわね、今日の主役その2)


淡いピンクのドレスに身を包み、潤んだ瞳で王太子を見上げる子鹿のような令嬢。

男爵令嬢のエミリア・ベルンシュタイン。

最近、王太子がことさらご執心と噂の女性だ。


周囲の貴族たちが、リーチュと王太子たちを交互に見ながらひそひそと囁きあっているのがわかる。


「まあ、あの方……また王太子殿下のお側に」


「リーチュ様が気の毒だわ」


「いえ、あの方は自業自得よ。いつも殿下に冷たく当たっていたじゃない」


(気の毒、結構。自業自得、大いに結構。だからお願い、私を解放して)


そんなリーチュの心の叫びが届いたのか、不意に、ホールに響いていた音楽がぴたりと止んだ。

ざわめきが広がる中、王太子ジークフリートが凛とした声で言った。


「皆、静粛に! これより、我が身にとって、そしてこの王国にとって重大な発表を行う!」


視線が一斉に壇上へと集まる。

ジークフリートは満足げに頷くと、まっすぐにリーチュを見据えた。


「リーチュ・フォン・クライネルト! そして、エミリア・ベルンシュタイン! 前へ!」


名指しされたリーチュは、本日最大のため息を心の内でついた。


(……ああ、ついに来たのね、この日が)


周囲の同情や好奇の視線を一身に浴びながら、リーチュは気怠げな足取りで壇上へと向かう。

隣に並んだエミリアが、か細い声で「リーチュ様……」と呟き、不安げにスカートを握りしめている。

その完璧なヒロインムーブに、リーチュは感動すら覚えた。


(すごいわ、エミリアさん。舞台女優にでもなれば大成するでしょうに)


そんなことを考えていると、ジークフリートが朗々と演説を始めた。


「ここにいるリーチュ・フォン・クライネルト! 君は私の婚約者でありながら、その立場を顧みず、常に傲慢で、わがままな振る舞いを繰り返してきた!」


(はいはい、そうですね)


「夜会では私を放置し、妃教育も休みがち! あまつさえ、この可憐で心優しいエミリアに対し、嫉妬から数々の嫌がらせを行った!」


(あら、それは初耳ですわ)


エミリアがびくりと肩を震わせ、「そ、そんな……わたくしは……」と涙ぐむ。

それを見たジークフリートの顔が、さらに険しくなった。


「もう我慢ならない! 君のような冷酷な女は、未来の国母にふさわしくない!」


ジークフリートは高らかに、指をリーチュに突きつける。

会場のボルテージは最高潮だ。誰もが固唾をのんで、次の言葉を待っている。


(長い……話が長いのよ、この人。要点だけまとめてくれないかしら)


リーチュは、襲い来る強烈な眠気と戦っていた。

昨日、新しい薬草の調合に夢中になって夜更かししたのがまずかった。


「よって、私は! この場において、リーチュ・フォン・クライネルトとの婚約を破棄し! 私の真実の愛の相手、エミリア・ベルンシュタインと、新たに婚約を結びたいと思う!」


おおっ、と会場がどよめいた。

これで終わりだろうか。ようやく帰れるのだろうか。

そんな期待に、リーチュの口元からふ、と小さな欠伸が漏れた。


その瞬間、ジークフリートの動きがぴたりと止まる。

彼は信じられないものを見る目でリーチュを見た。


「……き、君は……今、欠伸を……?」


「! いえ、滅相もございません」


慌てて口元を扇で隠す。

まずい、さすがに無礼すぎたかもしれない。

一応、相手は王太子だ。


ジークフリートは気を取り直したように咳払いをすると、エミリアの手を優しく取った。


「エミリア、もう大丈夫だ。私が君を守る」


「ジークフリート様……!」


感動の場面。拍手が起こってもよさそうなものだが、なぜか会場は水を打ったように静まり返っている。

皆、リーチュの反応を待っているのだ。

泣き崩れるのか、怒り狂うのか、それとも……。


「……」


リーチュは数秒、黙り込んだ。

頭の中で、王太子の長い長い演説を反芻する。


(ええと、つまり……婚約は破棄。新しいお相手はエミリアさん。で、決まり、と)


理解はした。

そして、リーチュはこてり、と首を傾げた。


「あの、殿下」


「な、なんだ!」


「ご演説は、以上でよろしいのでしょうか?」


予想外の質問に、ジークフリートが目を丸くする。


「は……? あ、ああ……。そうだ! 私の決意は変わらない!」


「はぁ、そうですか」


こく、と頷く。

そして、リーチュはにこり、と完璧な淑女の笑みを浮かべてみせた。


「では、お幸せに」


「……え?」


「え?」


ジークフリートとリーチュの声が重なる。

会場中の誰もが、自分の耳を疑った。


(ん? 何かおかしかったかしら? 婚約破棄されたのだから、祝福の言葉の一つでも贈るのが礼儀でしょう?)


きょとん、としているリーチュに、ジークフリートが狼狽えたように声を張り上げた。


「そ、それだけか!? 何か言うことはないのか! 悔しくないのか!」


「はぁ……。特にございませんが」


心底どうでもよさそうに答える。

悔しい? なぜ?

むしろ、長年の責務から解放されて清々しい気分だった。

これで心置きなく薬草園の世話ができる。


「では、わたくしはこれにて失礼いたしますわ」


くるり、とリーチュは壇上の二人に背を向けた。

そして、優雅なカーテシーを一つ。


「ジークフリート殿下、エミリア様。どうぞ、末永くお幸せに」


その声は、驚くほど平坦で、何の感情もこもっていなかった。

唖然とする婚約者(元)と新しい婚約者、そして凍りついた満場の貴族たちを置き去りにして、リーチュ・フォン・クライネルトは、誰よりも早く、誰よりも晴れやかな足取りで、パーティー会場を後にしたのだった。

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