3:鉄塔とイーゼル
こんにちは――と、俺はそのままの姿勢で返事する。
彼女は何事もなかったかのようにカンバスに顔を戻し、手を動かし始めた。あまりにも普通に流されてしまい、思考の取っ掛かりを失った俺はその場で固まった。
また彼女が顔を出して、
「こぉら。いつまでパンツ覗いてんの。危ないから上がってきな」
神仏に誓って、覗いてない。そこまで気が回らなかったことを悔やんでいる最中ではある。
ちらりとこちらを一瞥した彼女は、「正直でよろしい」と軽く笑った。
「いい景色でしょ。今日はちょっと烟ってるけど、天気が良いと海まで見えるんだよ。ええと……あっちのほうが
彼女の隣に立って、来し方を振り返る。確かに、いい眺めだった。白く霞んだ春の空はどこまでも広い。走って跳べば届きそうな距離には薄汚れた浅葱色の校舎の屋根があって、その向こうには市街地が一望できた。しかし、いくら見晴らしが良いとはいえ、道のりがあまりにも危険だ。よく顧問の先生が許したなと思う。
「許可なんてないよ。だって私、美術部じゃないし」
俺がぽかんと間抜けな顔を向けると、彼女は鈴を鳴らすように笑って、
「今日は絵の気分だったからね。美術部からパクってきた」
見れば、さっきお手玉していたのは絵具のチューブだった。勝手に備品を持ち出したうえ、学外の危険な場所に無許可で侵入するなんて、バレたらタダでは済まない気がする。
「へーきへーき。ちゃんと美術部の友達には一言入れてるし、こんな場所めったにバレないって。――ま、横着したせいでキミにはバレちゃったけどね。……でもさ、キミも共犯になるつもりで来たんでしょ?」
と、彼女は不敵な視線をこちらに向けた。
「部活見学で行った家庭科部に忘れ物をして、それを取りに行った帰りに変なヤツを見かけて気になっちゃって、そんで結局好奇心に負けて後をつけてきた――ってところね」
なんでそんな細部までわかるんだろう?
驚きに言葉を失っている俺の顔を見て、彼女はニヤリと口の端を持ち上げた。
「ちょっとした推理だよ。――まず、キミが来たのは私が登ってきたのと同じルート、つまりキミが私を目撃したのは北棟の一階。なぜかといえばキミが新入生だからで、新入生が北棟に用があるとしたらそれは部活見学ね。んで、北棟にある部活といえば家庭科部で、家庭科部は一階にあるから、キミが私を目撃したのは一階。
あとはキミの出で立ちね。時間的にみて、キミは私を目撃してからほぼ真っすぐここに来た。つまり、キミはすでに帰り支度を終えていた。ということは、これから見学に行くのではなくすでに行った後、一度教室に戻って帰ろうとしたところで何か用事があって――例えば忘れ物に気づいたとかで家庭科部に行き、そして私を見つけた。
普通なら無視して帰るか、通りすがりの先生にチクって終わりだけど、好奇心旺盛なキミは衝動的に追っかけてきたってわけ」
姿を見ただけでそこまで推理できる観察眼と頭の回転の良さに、素直に感動してしまった。
その眼の良さは作品にも現れていた。
あまり広くないカンバスには目の前の風景が切り取らていた。青空は心地の良いグラデーションで、実際よりも鮮やかさが強調されている。街並みはまだざっくりと塗っている段階だが、すでに目で見たのと同じくらいの遠近感があり、これから精緻に書き込まれていくであろう情景を思うとワクワクしてくる。
「まだ未完成なのに、そんなに褒められるとなんだかこそばゆいな」
彼女はバケツに突っ込んだ筆をバシャバシャと機嫌良さそうにかき回した。
「私はしばらくここにいるけど、気になるなら見ていっても構わないよ」
そうしたい気持ちも少しあったが、邪魔をしては悪いので帰ることにした。
「じゃあ、帰りはあっちのほうだからね」
と親指を後ろに向けて、
「鉄塔の向こうの方に道があるから、そこ降りていくと隣のアパートの裏に出るよ。というか、そっちが正規のルートだからね。危ないとこ登ってきちゃダメだよ。まあ、どの口が言うんだってハナシだけども」
俺は礼を言ってその場を離れた。
教えられた通り、アパートの裏を通って舗装路に降りた。
振り返れば、まだ冬の面影を残した緑に乏しい小山が無言で空を背負っている。
まるで狐に化かされたような気分だった。
「さらばだ少年。星の巡りが適うなら、再び会うこともあろうぞ」
おどけた台詞で手を降る彼女の姿を脳裏に反芻しながら、俺は駅へと向かった。
その道すがらにふと、気づいた。
そういえば、名前を聞いてなかったな――。
❀✿❀
それからしばらくの間、彼女と会うことはなかった。
それでも俺は、カンバスに向かって筆を動かすあの横顔がどうしても忘れられなかった。
彼女が口にした別れの言葉が、まるで偉大な預言であるかようにいつまでも耳に残っていた。
実は一度だけ、鉄塔の下まで足を運んだことがある。
だがしかし、あの日イーゼルが佇んでいた場所は我が物顔で伸び放題の雑草に覆われていて、もう彼女はここに来ることはないのだろうという予感だけがあった。
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