鉄拳聖女

あゝ、主よ


 ☆


「あゝ、主よ――」


 その者、神を讃える。


 折れそうな程に繊細な手を結って、祈りを捧げる。陶器の肌に瑕疵はなく、月夜に誘われる琥珀の瞳に淀みはなく。


「あゝ、主よ――」


 その者、神へ謳う。


 雪原のような髪が、心地の良い足音に伴って流れる。黒い衣服は神に仕える証か。拘束されるかのように、背に掲げるは神の徽章マントラ


 金を織り込み浮かぶ文字の群は、宛ら巨大な瞳のようである。


「あゝ、主よ――」


 その者は恍惚とした笑みを浮かべた。怯える者に慈愛を携えて、幼き顔を不釣り合いな微笑みで塗り潰す。


「ちか、近付くなッ!」


 男は言う。帝都の裏道、人気のない通り。


 帝都は複雑な地形をしている。遠くを見やれば荘厳な時計台が伺える。全容を見る事は叶わずとも、建物の隙間に、月明かりと共に。


 男は、追い詰められていた。


 目の前の修道女に。主を讃える者に。


「近付くんじゃあねえッ! この俺をッ! 誰だとおもってやがるッ!」


 男はがなり立てる。身振りは荒み、近場にあった木箱を蹴り飛ばした。本能的に、その修道女に近付きたくない一心に。積まれた木箱の中は、彼のように空っぽだ。


 カラカラと細道を塞げど、中身のない箱は殺人鬼の逃避行を嘲るようですらある。虚しく転がった障害物を前にしても、修道女は合間を縫ってゆらりと歩み寄るのだ。


 手を胸前で結って、琥珀の瞳を妖しく輝かせ・・・て。


「来るなぁッ、来るなぁあッ!」


 男は逃げていた。何故ならば、彼の手には血濡れた刃物があったから。


 そうだ、彼は今宵、一人の淑女に凶刃を突き立てた。組み伏せ、刺し、跨り、愉悦に浸る。


 そうだ、彼は殺人鬼であったのだ。近頃巷を賑わせ、慄かせる連続殺人鬼、帝都を暗躍する怪人だ。


 だが、彼は知らなかった。怪傑である自尊心からか、彼は、目の前の修道女に凶刃を向ける。指先が震える。


 それは帝都の夜が寒いからだろうか。年中、曇天に覆われている気すらする都だからだろうか。


――ゴオン、ゴオン。


 帝都に響く鐘。時計台から鳴り響く音。嫌に重く、その身を震わせるからだろうか。血濡れた凶刃は、小刻みに揺れていた。


「あゝ、神よ――」


 修道女はそれは綺麗で儚い声をしていた。


「あぁあッ!」


 男は、駆ける。背を壁に打ち付けたからだ。逃げ場がなくなったからだ。凶刃を、目の前の修道女に突き立てさえすれば。


 そうして、どうなる?


「あぁッ?!」


 修道女に向け伸ばされた凶刃は、するりと対象を抜けた。単純だ、修道女は結っていた手を解き、身を半分、横に傾けたから。歪な体勢、刺さる予定が崩された男は躓くように前傾する。


 小さな手。凶刃を一撫でして、修道女は先程とは違う笑みで。


「ごきげんようっ!」


 凶刃を持つ右腕、袖口を掴んだか。ぐいっと引っ張った。無理な体勢だからか、男は更に前に倒れ込む。


「なぁっ!?」


 男は特筆して優れた体格をしてはいない。衣服こそ妙に高価ではあるけれど、その中身は随分と見窄らしい。


 体勢を崩した最中、修道女のか弱い牽引に負けるまでに。それは力だけの問題ではなかったが、この瞬間、男は優位を崩壊させた。


 凶刃を手に宵闇を徘徊する怪人だった。目を見開いて、鼻先に迫り来るナニカに気付いた時にはもう遅い。


「どうぞ死んでくださいませっ!」


 ゴシャ――。


 修道女の放つ膝蹴りが顔面を打ち砕く。夜に散る鮮血。影に落ちる骨折の音。肉と骨が潰れる音。


 高貴な身形の貧相な男の膝が途端、崩れ落ちる。


 それは、体重移動の産物だった。


 身体的優位を覆す流れであった。つんのめって、全体重が前に向かった。そうさせたのは修道女である。


 故に、突き出した杭に押し込むように、膝蹴りが顔を捉え、容易に潰したのだ。


「ぁッ?」


 体格の差は歴然であれど。


 重力に引かれ、今この時、地に倒れ伏す男はその姿で衝撃を物語る。


「ォッ?」


 キィン、キィン――。


 口から漏れた余韻に、高い音が混ざった。


 凶刃が、石畳を跳ねて行く。高い音は鼓膜に痛みを走らせて、修道女は一瞥した。


 後に、興味をなくしたのか徐ろに瞬く。


 男は、昏睡した。物言わぬ彼に目も向けず、修道女の瞳はしっとりと光を鎮めて行く。


「――マリアくん」


 修道女、の背後には背丈の高い男。横道だ、暗くて声を掛けるまで姿が見えていなかった。


「死んでください、とは、神に仕える身としては如何なものかね?」


 マリアと呼ばれた娘はふふんと鼻を鳴らした。倒れ伏した怪人をやっと見やって、満足そうにしているではないか。そうして言うのだ、さあ見てくれとばかりに。


「主はお赦しくださいますよ、カレイル様」


 ぐっと、胸を張る娘。これでは、釣った魚を自慢するようなものである。そのような年相応な反応に、三つ揃えの紳士、カレイルは肩を落とした。


「しかしながら、無謀だと愚考してはいたが……こうもなろうとはね」


 転がる怪人が、魚であれば相応か。否、今更である。カレイルはハットを押さえ、苦笑いを浮かべた。


 怪人は修道女、マリアの膝蹴りで昏睡している。血こそ出てはいるが、無事、とは呼べぬものの、見事に確保出来てしまった。


「カレイル様、聖教では善き徒には慈愛を……悪しき徒には鉄槌を、と説かれております」


「初耳だ。経典の何頁かな?」


「第二章、第四節です」


「あれは……不道徳を窘める文言であって、悪しき隣人を鉄拳制裁せよ、ではなかった筈だが……。まあ良い、マリアくん。こたびの助力に感謝しよう」


「いいえ、いいえ。私はすべき事をしたまで。逆に、私のわがままでカレイル様の手を煩わせてしまいました。とは言え、神に仕えるこの身は何人たりとも犯せはしませんがっ」


 握り拳、そしてジャブ。鋭い軌道だ。


「そうかね。まあ、そうだな。実際、よくやってくれたよ。しかしねえ、君もそろそろ学院生としての自覚をすべきではないかね? 淑女らしい振る舞いをだね……」


 マリアは今年から学院生となる。これは、カレイルと呼ばれる辺境伯の好意で、だ。映えある帝都に聳える時計台、あの直下に学園はあった。マリアは神に仕える身、関わる事はないと考えていたのだが、どうもそうはならなかった。


「……どうしました?」


 マリアの問いに、カレイルは思考をやんわりと緩めて。


「明日から、君は学徒だ」


「……あ、そうなんですね?」


 こてんと頭をたおせば、誠に愛らしいのだ。怪人を追い掛け回しさえしなければ。


「変わらないな、マリアくん。それは美徳でもあるが――」


 カレイルの意図としては、黒い話もあるにせよ、卒業さえすれば権威を与えられ、これからの人生に於いてプラスになるだろう、と言う簡素な話ではある。


 カレイルとマリア、一種、父親のようにも考えられようか。ではあっても、マリアとカレイルに血の繋がりもなければ、書類上の繋がりもない。


 再び怪人を伺う。帝より賜った命により怪人を捕縛した、のは良いとして。否。


 カレイルは思考を断ち、張った背筋を緩めた。


「時計台では淑女らしくせねばならないよ。あそこは、異界のようなものだから」


 ハットを直しつつ、小さなマリアを見下ろす。こうして見ていれば、怪人を追い掛け回すお転婆に映らないのだが、一度走り出すと止まらないのをカレイルは熟知している。危険な程に、少女の本質は。


「それに、マリアくんは特殊な立場でもある。不安にさせるようで悪いがね」


「なるほど」


 分かってはいないのだろうな、カレイルは思う。だから、強く、出来るだけ真剣に。


「マリアくん、人は殺しちゃあいけないよ」


「承服しかねます」


「承服し給え、君は神の信徒なのだろう? もう、あの時とは違うのだよ、立場も環境も、状況さえもね」


「……努力、は、します」


 分かってはないな、とカレイル。いっそ手綱を放り捨てたくもなるが、知的好奇心を抑え、笑窪を深める。


「所でマリアくん、君はどんな人間になるのかね?」


 それは、問いだ。マリアは黙った、考えてはいなかったからだ。


 直ぐには浮かぶ筈もない。


「考えて、おきます……」


 この日、そう答えるだけがマリアの精一杯だった。

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