生きがい。

れいとうきりみ/凪唯

喪失

 その日は突然やってくる。大好きだった漫画が突然連載を終了するような、行きつけのカフェにふらりと立ち寄ったら閉店していたような、愛する人から突然別れを切り出されたような。


 絶対に思い出したくない、忘れはしない。だってあんなことがあったのに。どうしようもできなかった。自分はなんて不出来なんだろう。俺の脳はネガティブな言葉で侵食される。


 ―あの日、あんなことが起きてなければ。



 学校帰り、既に暗くなっている空に見守られながら帰路に着く。12月、冬。町にはうんざりするほどのイルミネーションが、存在を主張するようにぎらぎらと光っている。手を口の前にもっていき、息を吐く。白い息が広がり、瞬く間に消える。歩く、歩く、歩く。まだまだ続く道。生きた心地がしない寒さと虚無感を感じる。体が浮いて彼方へ飛んで行ってしまわないよう、足をしっかり踏みしめて、確実に前へ進む。

 退屈だ。

 人生に生きる意味を見出せない。何が楽しくてこんな日々を過ごさねばならないのか。その一言だけが彼の頭を支配する。

 「ねえ!■■■!」

後ろから透明な軽い声が聞こえる。走る足音は彼の心を高揚させる。

 

 彼には一つだけ、生きる理由があった。


 紗良。声の正体。

 彼は彼女に恋をしていた。恋心は、いとも簡単に人を死からかばう。

 「ごめん!せっかく呼んでくれたのに、会えなくて」

息を切らしながら彼に近づき、肩を叩いてそう言う。髪がなびく。綺麗だ。

 「いいよ、別に。大した用事じゃなかったし」

 「不貞腐れないでよ。ちょっと生徒会の集まり出遅れちゃったんだ。不可抗力だよ!」

 明らかに許してくれと言わんばかりの顔をしている。呆れるが、それもまたいい。

 「何を言おうとしたの?」

沈黙。ドクン、ドクン。脈を打つ速度が速くなる。頭が真っ白になりかける。緊張で声がうまく出しにくい。震える口を何とか止めて、息を吸い、そして。


 「俺は紗良のことが好きだ!付き合ってほしい!」


 通りかかる人が彼らを見ているが、二人とも気づかない。


 口元が緩み、紗良はにやにやした顔を見せる。


 「いいよ」


 

その時は突然やってくる。

 

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   


 次に目を覚ましたのは、明らかに誰も使っていない廃墟の大きい倉庫だった。夜のため非常に暗く、うっすらとした建物の形しかわからなかった。

 足音が近づく。不気味さを感じて身震いする。怖い怖い怖い。


 不意に電気がつく。あまりのまぶしさに思わず目を瞑る。しばらくそうした後、少し目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。


 彼女が手と足を縛られ、横たわってる。銀行強盗のようなマスク姿の男が、彼女を囲んでいる。男は中華料理でしか見たことのないような大きな包丁を持っている。

 「いいモン拾えたぜ」

男が笑う。うす気味の悪い、また気色の悪い笑い声だ。

 「きれいな顔だ。素晴らしい」

舐めまわすように彼女を見る。

 「よし。あまり待っても時間の無駄だ。始めよう」

男はそういうと、彼女の口元で縛ってある布を取った。

 「あんたたちなんなの!?何するつもり!?■■■は!?いるの!?」

俺を探している。布のせいで喋れない。んーんー。力強く叫ぶ。

 「殺すんだよ、お嬢ちゃん」


…は?


とうとう頭がパンクした。殺す?なぜだ?なぜ殺されなきゃいけない?


 「いいか?幸せってのは、誰かの犠牲のもとで成り立っているんだ」

包丁を持った男はマスクを外し、わざとらしく話はじめる。

 「俺だって幸せが欲しい。だけど俺の幸せは法律で禁じられてるんだ。だから隠れてやる。君たちは俺の幸せのための犠牲なんだよ」

 一切理解ができない。俺や彼女の命はそんなことのためにあるわけじゃない。

 「俺は人を痛めつけて殺すのがたまらなく好きなんだ」

おそらく人生で初めて「ニチャア」という効果音が似合う場面に遭遇しているだろう。彼の笑顔は、笑顔と分類するにはあまりも歪んでいて、気色の悪いものだった。

 「まあ時間をかけても楽しいんだけど…。今は飢えてるからなあ…」

男がそういうと、包丁を振り上げる。

 ぐさり。指が切れる。やわらかい音と彼女の悲鳴が、工場を支配した。流れ出す鮮血。すぐ後ろにいる俺の体を、赤く染め始める。

 クックックと笑う。堪えていた笑いは遂に弾ける。

 「いいよ!その調子だ!いずれ死んでしまうなんてもったいない!」

男はまた包丁を振り下ろすと、今度は腕を切り落とした。一度では完全に切れなかったのか、何度も何度も切り刻む。彼女の叫び声は、もはや激痛のあまり声になっていない。

 「そうだ」

男は素っ頓狂な声を出すと、俺へ近づいてきた。ずりずりと俺を引き摺り、彼女と向かい合わせになったところで、手を離す。

 「どうだ?少年。お前の彼女さんの残忍な姿」

彼女はすでに正気を失っているのか、涎を垂らし、白目むいている。あまりの痛々しさに吐き気を催す。

 「興奮するだろう!?楽しいだろう!?君はこの瞬間に立ち会えて実に幸せな人だよ!!」

 男はさらに太ももに焦点を当てる。何度も振り下ろし、血飛沫が飛び散る。涙はすでに乾いている。

 「チッ…。漏らしてんじゃねえよ…。お前が出すのは血だけだろうが!」

何が沸点なのか、まったくもってわからない。怒り狂った男はさらに太ももに包丁を叩きつけ、遂に切断された。

 「ああ…俺はなんて幸せ者なんだ…!」

悦に浸っている男も目の前で、俺は吐く。とうとう限界に達してしまった。彼女に至っては、既に声も発していない。気絶してしまったようだ。

 「だから…少年、吐くなよ汚らしい…」

呆れた声でそう言う。しかしどうしようもない。あまりにもショッキングすぎて、吐いていないと自分も気絶してしまう。

 「はあ…。疲れた。そろそろ飽きてきたなァ…。この辺で終わりとするか」

ため息をつく。包丁の持ち方が変わった。先端が彼女の腹を向いている。

 んーんー!

届かない声。勢いよく振り下ろされた銀色の悪魔は、つかえることなく突き刺さり、大きな赤い海を作った。

  

 ―彼女が、僕の目の前で、あまりも残酷に、初対面の男の欲望のため、息絶えた。


 もう何も見たくない。何も考えられない。嗚咽。頭がぐわんぐわんと痛む。

 「…その顔だよ。その顔を眺めるまでがワンセットなんだよ実に愉快だ!」

男は手を広げてそういう。絶望とはまさにこのことだ。


 「…さて。お遊びをした後はお片付けをしなきゃな」

男は立ち上がり、再び暗闇へと消えていく。帰ってきたときには、ドラム缶を抱えていた。

 「男はあくまで絶望した顔担当。男の悲痛なんて雑音でしかないから聞いてても楽しくないんだよね」

 男はそういうと、俺を掴みドラム缶へ投げ入れる。精いっぱい暴れるが、抵抗は虚しく終わる。

 男はそのあと、彼女の腕、指、足と順に管の中へ投げ込み、そして胴体を入れる。

 「よかったじゃないか。死ぬ前に彼女とキスできて」

生気を失った目をした彼女の死体と、僕の口は触れていた。鉄の苦い味がする。

 「夜を楽しませてくれてありがとう。じゃ」

灯油を注ぐ。もう生きるために足掻こうとはしなかった。彼女のいないこの世界は、地獄そのものだ。ならば彼女と一緒に地獄へ行った方が、いいのではないか。

 ライターが投げこまれる。熱い。痛い。怖い。意識が遠のいていく。




 「こんなにも憎悪で満ちた顔してここへ来たやつは初めてだな」

俺よりも背の低い、タッセルボブの少年が話しかける。年下だろうか。

 「誰だあんた」

 「おー怖い怖い。ずいぶんと高圧的だねえ」

 「黙れ。門出紗良はどこだ。いるならだせ」

やれやれといったように少年は首を横に振った。

 「もういないよ」

 「なら同じところへ連れていけ、早く」

 「まあそう焦るなって。あんた、まずこの状況に疑問を持たないのか?」

 「大方地獄かその類いだろ」

 「…正解!君すごいね」

煽られているように感じて腹が立つ。

 「だからこそだ。ちょうど同じ時にここにきてるはずだ」

ため息をついた少年は、少し口角を上げ、話始める。

 「彼女はもう新たな人生を歩み始めた。だからもう会えない」

少年はそう告げた。あまりにも展開が早く、理解が追い付かない。頭がパンクしそうになり乃を何とか抑え込み、質問する。

 「なら彼女と同じ場所に生き返らせてくれ。できるだろ?」

 「それは無理だね。でも今の記憶を持って生まれ変わることならできる」

 「どういうことだ?」

そろそろ本当にパンクしそうになる。我慢しろ、俺。

 「別に。そのままの意味。日本のどこかにその状態で生まれ変われる。幼少期の覚える段階を飛ばせるから、その分早く見つけられるんじゃない?」

 少年はずっと、SFみたいな話を淀むことも笑うこともなく淡々と話す。俺は考える。まさしく少年の言うとおりだ。この通りのまま生き返るなら、彼女のいるところに戻ればいいだけだし、男も見つかるはずだ。

 「分かった。その新しい命をよこせ」

 「…人にもの頼むときは態度ってもんがあるでしょうが」

ぶつぶついながらも、パソコンで作業を進める。よし、と声をこぼし、エンターキーを叩く。

 「じゃ、新しい命、受理しました。楽しんで」

乾いた笑顔で手を振り、俺を見送る。疾走感を感じる。視界が眩む。

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