第32話 紅い果実飴編 13 ー 14歳 太陽の部屋の思い出ー

次の瞬間。

夜姫の世界がぐらりと反転した。


世界から、

音が消えた。


——いや、

夜姫の耳に届かなくなっただけだった。


一日の出来事が夢だったかのように、

瞬く間に常世の遥か上。

高い山々に囲まれた東の果て、


常降の地上では須佐男は笑いながらも、

その場に崩れ落ちたまま空を見上げていた。


颯は何も言えず、

ただ夜姫だけを見つめている。


水波女だけが、

その意味を理解していた。


(……これはもう、誰にも止められない)


——同じ景色を見ていても、

同じ気持ちの者は誰一人いなかった。


夜姫は逆さまになった世界の意味を理解するのに一瞬、時間が必要だった。


激しく吹き上げる風が今居る場所を静かに知らせる。


(…息が、できない。)


あまりの苦しさに天照の袖を掴む。


「アマ…」


夜姫は口を開きかけたが、

それ以上、言えなかった。


夜姫の感じた事のない光の速度。


光の如く空を飛ぶ天照の顔は見えない。

凄まじく靡く、黄金の短い髪だけが

音を立てはためく。


夜姫を一層強く掴む腕が、

天照の心の戸惑いを知らせるようで、

夜姫は胸を締め付けられるような気持ちになった。


瞬く間に景色は変わり、

日は少し日没に近づいている。


気付けば、二人は太陽宮の天照の部屋にいた。


石造りの太陽宮。

厚い壁に囲まれた、静謐な一室。


天照の部屋は夕暮れに紅く染まっていた。


大きな窓からは、常世の空と街並みが見下ろせる。

窓際にある、なめらかに磨かれた長い石椅子。


夜姫をそっと窓から降ろし、

自らは顔は伏せたまま。


天照はそこへ腰を下ろし、

肘を膝に乗せて、深く項垂れる。


重く長い吐息が、部屋の空気に溶けた。


夜姫は、しばらくただ立ち尽くしていた。

飛んできた時の感覚と、さっきまでの騒ぎが、

頭の中でうまく整理できない。


—— 一歩

また一歩近付いて、

天照の隣にそっと腰を下ろした。


灰青の瞳で覗き込む。


「ア、アマテラス…さま?」


琥珀の瞳が瞼を伏せ、

こちらを覗いた。

その瞳はほんの少しだけ揺れている。


「……………すまん」


ひとことだけ。


石壁にそれが反響して、

思ったよりも大きく響いた。


窓から吹き込む風が、

カーテンのように薄い光を揺らし、

二人の影を床に重ねる。


——沈黙が落ちる。


夜姫はふっと頬を膨らませ、

ほんの少しだけ、子どもっぽい声音で問いかけた。


「……それだけですか?」


天照は眉をわずかにひそめる。


夜姫の言葉の意味を測るように、

一瞬だけ目を細め──


「………あぁ。」


短く、そう答えた。


夜姫の銀髪を揺らすように、

窓から優しい風が吹き込む。


静かな空気の中、夜姫は少しだけ首を傾げ、

悪戯っぽい表情で問いかけた。


「……天照様は

 生まれる前から私のものではないんですか?」


冗談めかした声音だった。


天照の肩が、わずかに揺れた。


返事はない。

琥珀の瞳も動かない。


沈黙は否定ではなく、言葉を選べない沈黙。


夜姫はそっと微笑む。


寂しさでも、期待でもなく、

「これ以上、天照を困らせたくない」という

幼い優しさの表情だった。


彼女は静かに天照へ歩み寄り、

伸ばした指で彼の頬にそっと触れる。


そして——


ほんの羽のような、温かい口づけが、

頬に落ちた。


天照の琥珀の瞳が大きく見開く。


「……お説教ですよ!」


夜姫は自分からしておいて、

顔を真っ赤にして落ち着かない様子だ。


そして少し後悔を浮かべて、

尋ねる。


「…ご、ごめんなさい。。

 …嫌でした?」


天照は固まったように微動だにしない。

ただその頬だけが、熱を帯びている。


確信はなかった。


ただ、不器用で完璧な目の前の孤独な神が

愛おしくて堪らなかった。


だから、いつもの冗談は言わない。

夜姫は勇気を振り絞って琥珀の瞳に向き合った。


「100年経ったら…

 って言ってたけど…

 絶対…

 もっと早く いい女になりますね!」


天照の喉が小さく鳴る。


夜姫の声は震えている。


「…後…30年、ううん…50年したら、

 アマテラス様のお嫁さんに、なれたらいいな」


祈りのような宣誓と、請い。


「…アマテラス様も、

 私のことを、好きになってください。」


だが彼は続く言葉を待つように静止する。

夜姫はそれ以上は何も言わなかった。


余白。

沈黙。


それが二柱の距離をそっと結び直す。


太陽宮の大窓から、

淡い風が二人のあいだを通り抜ける。


夜姫は、それ以上を求めなかった。

彼の沈黙を責めることもしない。

ただ、数秒だけ視線を重ねる。


それで十分だった。


窓から吹き込む優しい風が

二柱のあいだをそっと撫でて通り抜ける。


銀髪が揺れる。

天照の赤みが灯った頬が、光に淡く照らされる。


言葉のない時間が、

ふたりだけの密やかな場所として結晶していく。


——この日、

太陽は初めて、

夜に触れられてうまく呼吸ができなくなった。


そして夜姫は、

“自分が誰かの焦がれの中心にいる”という事を

まだ知らないままだった。


夜姫の14歳、夏の物語は、静かに頁を閉じる。


─────────────────

引き続き、

夜姫と天照の行く末を見守ってください…

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