第6話 恋心
眠っている間に、誰かが優しく髪を撫でていることを知っていた。
夢かうつつの境で、その温かな手に泣きたいほどの安らぎを覚えていた。
きっとあれは雨龍なのだろう。彼からは、暖かな気配がする。
だから疑うこともなく、そう思っていた。
「…………」
月はぼんやり目を開けて、薄暗い天井を見上げた。
月明かりが差し込んでくる。今、何時だろう。
身を起こして、痛む身体に眉を寄せた。
随分手ひどく抱かれた気がする。気を失うまで離してもらえなかった。
喉が少し痛む。
ふと気付くと、枕元に飲み物が入ったグラスが置いてあった。
雨龍が用意してくれたのだろう。自分が立ち上がれないかもしれないと考えて。
手に取るとまだ少し冷たかった。
蓋を開けると口を付けて、一気に半分くらい飲んだ。
甘い味と冷たさが心地よくて、ふう、と息を吐いた。
それから枕元の時計を見る。夜中の二時だった。
月はどうにか立ち上がって、ふらふらと歩き出し、戸を開けた。
長い廊下は欄干があって、その向こうは庭だ。
月明かりが照らす庭を飛び交う光が見えて、足を止めた。
「…蛍…」
ぽつりと呟いて、欄干に近寄る。手を突いて、庭を眺めた。
立派な庭だ。屋敷もすごくでかくて、広い。
自分には縁のなかった世界だ。
蒼龍は本当にすごい人なんだ。苗家の当主で、大きな組織のボスで。
そんなすごい人が、何故私を抱くのだろう。
私を買ったから?性欲処理の人形だから?
そう考えると胸がずきりと痛んだ。
ああ、なんかちょっと、くらくらする。
ふわふわ、夢の中にいるみたい。
不意に肩になにかかけられた。
「月。そんな薄着で風邪を引く」
「…蒼龍」
振り返ると蒼龍がそばに立っていた。
肩に掛けられたのは薄手の上着だ。
「どうした? 蛍?」
「…はい。
綺麗だから」
「そうだね。
ここでは毎年見られるんだけど、綺麗だぞ」
月の言葉に蒼龍は柔らかく微笑んで答えた。
「蛍は好きか?」
「綺麗だと思います」
「綺麗で、儚いと俺は思うね。
今はあんなに輝いていてもいずれ消えてしまう。
泡沫のように」
蒼龍は視線を庭で飛び交う蛍に向ける。
「物思へば 沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂かとぞ見る…」
「その歌は?」
「私の国にある歌です。
物思いをしていると蛍の火も自分の身から飛び出した魂のようだ、って歌。
恋の悩みを歌ったものらしいんですが」
「そうか。俺みたいだな」
そう言って切なげに微笑んだ蒼龍が、昼間とはあまりに違っていて。
自分を抱いたときは、なんだか怖かった。
壊すみたいに、駄目だと訴えても離してくれず、何度も何度も求められた。
蒼龍の気持ちがわからなくて、だから怖くて。
でも今、目の前にいる蒼龍はなんだか優しい。儚げにすら見える。
まるで、自分の願望が夢から飛び出したみたいに。
ずっと、以前のような優しい蒼龍と話したいと思っていたから。
「俺は、今はその歌が少し理解出来る」
「……蒼龍?」
「月はわかるか?」
「…………わかりません」
月はそう答えたけど、なぜだか胸が痛かった。
締め付けられたような感覚。
「…月。
身体、辛いか?」
「………あ」
「…すまない。
制御出来なかった。
…傷つけたな」
そう言って微笑む蒼龍は寂しげで、悔やんでいるようにも見えた。
「………蒼龍」
「…それでも望んでしまう。
もっともっと、俺の名を呼んで欲しい。
お前に、呼んで欲しいんだ。
…そばにいて欲しい」
「……っ」
「俺は愚かだ」
笑った蒼龍の顔は、泣きそうにも見えた。
思わず手を伸ばし、蒼龍の頬に触れていた。
あまりに儚げで、消えてしまいそうに思えたから。
消えないで欲しい。
これが夢だったとしても。
ずっとずっと、以前のように優しく微笑む蒼龍に、会いたかった。
「…ユエ?」
「………………わからない。
けど、私は…」
蒼龍の頬は冷たくて、やっぱり夢かもしれないと思った。
「……私は、蒼龍の………」
そばにいたいのだろう。きっと。
家に帰りたくて、それでも。
蒼龍と話していたい。そのそばにいたい。
現実の蒼龍には言えないから。怖いから。
だからこれが夢なら。
「…蒼龍」
言葉にならなくて、ただ涙が溢れた。
蒼龍は息を呑んで、月の手をそっと握る。
「…月。
すまない。泣かないでくれ…」
「……っ」
「…俺が悪いんだ。
…月」
蒼龍の手が頬に触れた。
薄暗い空。輝く月と、舞い飛ぶ蛍。
幻想的な景色の中、目の前にいる蒼龍さえも消えてしまいそうで。
「すまない…」
蒼龍が小さな声で謝った。
優しく引き寄せられ、唇に蒼龍がキスをした。
自分を抱くときとは違う、慈しむようなキス。
涙が溢れて、また零れた。
寝台の上で眠る月の髪を撫で、蒼龍は小さく息を吐いた。
額に触れると、少し熱い。
もしかしたら熱が出たかもしれない。自分のせいだ。
優しく髪を梳いて、撫でる。
夜、彼が眠っている間しか、そんな風に触れられない。
いつも真夜中、彼が眠っているときに、こうやって触れた。
起きているとき、彼は自分に怯えるから。
どうしても、彼に優しく触れたくて、夜中に部屋を訪れた。
さっきの月は夢うつつで、ぼんやりしていた。
だからか、自分にも怯えたそぶりを見せなかった。
月はなにが言いたかったのだろう。
何故泣いたのだろう。
俺のせいだろうか。
眠る月の手を取り、そっと指先に口づける。
「…月。
すまない。
それでも、お前を放せない」
この身を焼く思いがお前を傷つけて、苦しめても。
もう、手遅れなんだよ。
お願いだから囚われていて。この腕の中に。
あの歌を思い出す。
もし魂が抜け出て蛍になれるなら、ずっとお前のそばに寄り添っていたい。
傷つけず、苦しめず、ただただ、そばに。
月はぼんやり瞼を開けて、天井を見た。
朝陽が射し込んできて眩しい。
「…………?」
なんか、やけに怠い。昨日のせいだろうか。
そう思いながらどうにか起きあがる。
「…………きもちわるい」
なんか、気分が悪い。身体、熱い。
ぼうっとしていると戸が開いて雨龍が入ってきた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
「……って」
雨龍は月の様子がいつもと違うことに気付いたのか、目を瞠って近づいてきた。
大きな手で額に触れる。
「熱いじゃないですか。
熱あるかもしれません。
気持ち悪いですか?」
「……はい」
「じゃあちょっと――」
「待ってて」と言いかけた雨龍は戸を開けて部屋に入ってきた小雷を見て「丁度いい」と呟いた。
「へ? なにが?」
「医師を呼んできてください。
多分熱がある」
「えっ!?
だ、だいじょうぶ!?」
「大丈夫じゃないから言ってるんです」
「だ、だよね!
ちょっと待って!」
小雷は雨龍の言葉に大慌てで部屋を飛び出して行く。
あ、飲み物も頼むんだった、と気付いたがもう遅かった。
「あ、医師様に診てもらうんですか?」
「嫌ですか?」
月は熱のせいでなく顔を真っ赤に染めてうつむく。
「身体…跡、ありますので……」
「……ああ」
そういえば噛み跡とか残ってたな、と雨龍は思い出して眉を寄せた。
「気にしないで。
月さんが悪いんじゃないです」
雨龍は優しく微笑むと、月の頭をぽん、と撫でた。
不意に戸が開いて小雷が戻ってきた。
「はい。体温計と氷枕!」
「おお、気が利くじゃねえか」
言わなかったのに持ってきてくれたのか、と雨龍が呟くと、小雷はちょっと拗ねたような顔をして「私、そこまで馬鹿じゃない」と言った。
「飛蘭にも言ったから、おかゆ作ってくれるってさ。
卵がゆ好き?」
「好きです」
「ならよかった」
なにか食べて薬飲まないとね、と小雷は笑った。
体温計で熱を計ると38度だった。とりあえず医師に診てもらって薬飲んで寝てるしかないな、と雨龍は思う。
「じゃあとりあえず寝ていてください。
おかゆが出来るまでまだ時間かかるでしょうし」
「……はい」
月は小さく頷いたが、じっとなにか言いたげに雨龍と小雷を見る。
「ここにいたほうがいいなら、いますよ」
「私も」
「………はい」
二人が答えると月はホッと顔をほころばせ、また頷いた。
風邪を引くと心細くなるという。月もそうだろう。
タオルにくるんだアイスノンを頭の下に敷いて、月は寝台に横になる。
雨龍と小雷は月の様子を見ながら、退屈しないように話をした。
「蒼龍様とは昔からの付き合いなんだよ。
まあ元々私も飛蘭も苗一族だから、いつか会っただろうけど」
「そうなんですか…」
「ただ初めて会った時の蒼龍様は、年下なのに生意気だったね。
苗を統べる自覚があったってことなんだろうけど」
昔の話を語る小雷に、月は寝台に横たわったまま聞き入っている。
「雨龍は?」
「え」
「雨龍はどうしていたんですか?」
「…僕は」
視線を向けられ、雨龍はわずかに迷った後に、口を開いた。
「僕は兄上の腹違いの弟ですから、以前からこの屋敷にはいなかったんです。
目の色も違いますし」
「そんなこと、どうだっていいじゃないですか」
あっさり言われて雨龍は息を呑む。こちらを見上げる月の真紅の瞳は熱で潤みを帯びながらも真っ直ぐだ。
「雨龍は雨龍ですよ」
「………月さん」
「私は、今のままの雨龍がここにいてくれることが嬉しいです」
「…はい」
雨龍は泣きそうになって、月の手をそっと握る。
自分の出自なんて誰もが知っていることだ。
でも月に告げるのを迷ったのは、月が大事だったから。
だけど忘れていた。月はこう言ってくれる、暖かい人だってこと。
「なんの話してるのよあんたら。
病人のそばで」
「あ、飛蘭」
不意に声が聞こえて視線を戸口に向けると、トレイを持った飛蘭が立っていた。
トレイにはお粥の入った皿と水の入ったコップ。薬の箱が載っている。
「私たちの写真が見たいんだって」
「ああ、私たちの?」
「そう」
「いいんじゃない?
懐かしいわね」
飛蘭は微笑んで言い、トレイを寝台の上にそっと降ろした。
月は起きあがって、トレイを自分の前に置く。
「そういえば、飛蘭ってそのころからそうなんですか?」
「そう、って、この口調ってこと?」
「…はい」
月は聞いていいものか悩みながら、結局頷いた。
「ずっとその口調だけど、そもそも飛蘭って実際どうなの?」
「厳密に言えば違うかもね。
女みたいになりたいってことじゃないし。
ただ、男も女もイケる口だから、どうなのかしら?」
「ふーん?」
そんなもんか、と小雷と雨龍はあまり気にした様子がない。
月はそうなのか、と納得していた。
「男も恋愛対象なんですか?」
「そうね。
私、綺麗な子が好きだから」
小雷はにっこり微笑んで言い、尋ねた月の頬に触れる。
「月さんみたいな綺麗な子なら、大歓迎よ」
「ちょちょちょ、飛蘭!?」
「なに言ってるんですか!」
顕著に慌てた小雷と雨龍を見て、飛蘭は月から手を離すと楽しそうに笑う。
「なに本気で慌ててんのよ?
病人になんかしないわよ。いやね」
「…びっくりさせないでよもー」
「お前って意外とタチ悪いよな」
「あんたたちだって人のこと言えないでしょ」
ホッと息を吐く小雷と雨龍を見て、飛蘭はにこにこと笑んでいる。
あ、冗談なのか、と月は思った。
「そういえば、兄上は知っているんですか?」
雨龍の口から不意に出た名前に、月の心臓が大きな音を立てた。
あれ、夢だったのかな。昨日の夜の。
蒼龍、すごく優しかった。なんだか、悲しげにも見えた。
あの蒼龍は、夢…?
「一応言ったけど、驚いてなかったから…。
知ってたのか、予想してたのか、ってとこかしら…?」
「…ま、手ひどく抱いた本人ですからね」
熱が出ることも予想してたかも、と雨龍は呟く。
月はぎゅっと手を握って、自分の胸に当てる。
なんだか、苦しい。
蒼龍は自室でため息を吐いた。
なにも手に着かない。
月はやはり熱が出たようだ。昨晩、熱かったみたいだから、そうじゃないかと思った。
出来れば会いに行きたい。でも自分が行っても、月は落ち着いて眠っていられないだろう。
昨晩のように、自分と話してくれるだろうか。
不安で怖くて、落ち着かない。
月が熱を出し、ふせっていても蒼龍は会いに来なかった。
仕事はなく休日で、屋敷にいるはずなのに。
「なんで兄上は来ないんですか」と雨龍がぼやいたら、小雷は「怖いんじゃないの?」と言っていた。
手ひどく抱いてしまったから、月の反応が怖いのか。
だったらやらなきゃいいのに。本当に兄上は馬鹿だ。
雨龍はそう思って、蒼龍の部屋に行った。
蒼龍はやはり部屋にいて、なにをするでもなく椅子に座っていた。
「兄上」
「…なんだ?」
返ってくる声は冷静で、なんだか腹が立つ。
「どうして会いに来ないんです?」
「……月のことか」
「ほかにありますか?
あれだけ手ひどく抱いておいて、どうして」
雨龍は蒼龍に近づくと、蒼龍の横顔を見下ろした。
蒼龍の顔は無表情に近い。なにかを押し殺した顔にも見えた。
「本気で性欲処理の道具じゃないんでしょう?
抱けないなら興味ないとか言いませんよね」
「………俺を怒らせたいのか?
お前は」
低い声でそう言って雨龍を見上げた蒼龍の瞳には、隠しきれない憤りが滲んでいた。
「そうではないと、お前が一番わかっているはずだ」
「……わかっていますけど、兄上の態度には腹が立つ。
だからです。
月さんがどう思うのか考えてください」
「……俺が行けば、月は怯えるだろう。
安心して休んでいられない」
「だから来ないって?」
蒼龍は黙っている。無言の肯定だった。
「なら、あんな風に抱かなきゃいいのに……」
「……制御出来るなら、苦しくはならない」
蒼龍は眉根を寄せ、低い声で呟いた。
「自分で壊したというのに、そのせいでお前に懐く月に苛立つ。
愚かと笑うか?」
「……馬鹿だとは思います」
雨龍は自嘲する蒼龍の顔から目を逸らさないまま言った。
「…だが、僕も似たようなものです。
あなたが言ったことは間違っていません。
…僕も汚い」
あのとき、蒼龍が言った言葉は全部当たっていた。
「月さんに傷ついて欲しくないのに、今の状況を喜んでる。
僕も馬鹿だ。
だから兄上を笑えない」
「…………困ったな」
蒼龍はかすかに笑みを浮かべ、椅子から立ち上がる。
「どうしてこんなにも、たった一人のことが頭から離れないんだろう。
ほかの誰でも駄目だった。
…月じゃないと。
…俺もお前も、同じか」
囚われた美しい花に魅せられた。
大切すぎて、手放せずにいる。
「…兄上」
「…………欲しいんだよ。
月の全てが。
狂おしいほどに。
…どうしたらいいかわからない」
全て欲しくて。笑って欲しくて。でも、なにもかも奪いたくて。
どうしたらいいのかわからないんだ。
わかってる。自分の気持ちなんて。
だから、制御出来ない。
月は寝台の上に横たわったまま、小さく息を吐く。
身体がだるいけど、眠気はない。
雨龍も小雷も小雷も心配して、何度も来てくれた。
なのに蒼龍は全く来ない。
「……やっぱりあれ、夢だったのか…」
優しかったのに。泣きたいほどに優しかったのに。
あの蒼龍はやっぱり、夢だったのか。
現実の蒼龍は、自分のこと抱ける人形くらいに思ってるのかな。
そう考えたら胸が痛くて、瞳が潤む。
堪えるようにぎゅっと目を瞑って、滲んだ涙を拭った。
不意に扉がノックされて、月は思わず身を起こす。
「月さん。
具合どうですか?」
「……あ、…雨龍」
中に入ってきた雨龍を見て、落胆した自分に気付いた。
なに、期待してたんだろう。蒼龍が来てくれるかも、なんて。
「……どうしました?」
雨龍は悲しげに歪んだ月の顔を見て、心配そうに近寄ってくる。
「………なんでも」
「……兄上ですか?」
「…っ」
気遣うような雨龍の言葉に、息を呑んでしまった。
「…兄上に、来て欲しいんですか?」
「……………、わかりません」
雨龍の顔を見上げ、月はゆらゆらと瞳を揺らす。
「……でも、…蒼龍はやはり、私のこと…抱ければいいのかな…って」
「………」
震えた小さな声に、雨龍は思わずため息を吐きたくなった。
兄上の馬鹿。案の定、不安にさせてるじゃないか。
「…兄上にそう思われてるのは、悲しいですか?」
「………だって」
雨龍は手を伸ばし、月の少し赤らんだ頬に触れた。
「…あなたは、まだ兄上を信じたいんですね」
雨龍の言葉になにも言えなかった。
きっと、そうなんだ。今でも、蒼龍のことを信じたくて。
だから、あんな夢にこんなにも揺らいで、泣きたくなる。
「蒼龍がなんで、私を買ったのか、抱くのか…わからないんです。
だから、多分、怖い…。
…蒼龍のこと、…信じたいから」
「…そうですか」
裏切られても、恨めない。
蒼龍のことを信じていたい。
だって本当に優しかった。蒼龍は、優しかった。
あれが嘘だと思いたくない。
「…あなたは、綺麗すぎる。
優しすぎる」
雨龍はそう言って月の身体をそっと抱きしめた。
「…買いかぶりすぎです。
そんなんじゃない」
「いいえ、あなたは綺麗ですよ。
…なにもかも」
髪も肌も、その顔も身体も、心も。
なにもかも美しくて、自分の心を魅了する。
一目で男を虜にした、人魚のように。
「…ちがう」
月は雨龍の胸に頬を寄せたまま、小さな声で呟く。
もっと綺麗な人を知っている。
あの蛍が飛び交う幻想的な光景の中、微笑む蒼龍はとても美しかった。
あれは、本当に夢なのかな。考えるたび、胸が痛い。
「物思へば 沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂かとぞ見る……か」
「…はい?」
呟いただけだったが、自分を抱きしめている雨龍には聞こえたらしい。
「なんですそれは?」
「…ええと、和泉式部の歌です。私の国にある歌で」
「いづみしきぶ…?」
雨龍は全くわからないようで首を傾げていた。
月はそれを見てくす、と笑った。
蒼龍は悩んだまま、うろうろと廊下をさまよっていた。
手にはトレイ。その上にグラスと懐紙に包まれた飴細工が載っている。
月の様子を見に行こうと思ったが、やはりなかなか勇気が出ない。
「なにしているんです?
兄上」
「…雨龍か」
いつの間にか近くにいた雨龍に呆れたような目で見られ、蒼龍は平静を装って視線を向けた。
「それ、月さんに?」
「………レモンは喉にいいと聞いた」
「…自分で作ったんですね」
雨龍は少し感心したように呟く。
苗家の当主として幼い頃から育てられ、生きて来た蒼龍が自分でなにかを作ることはなかっただろうに、月のためにそれをするのか。
カップの中身はおそらくレモネードだろう。
「なのになかなか会いに行けないなんて、あなた実は臆病ですね…」
「…うるさい」
蒼龍は眉根を寄せて文句を言う。
「月が絡んだときだけだ」
「……それは、よっぽどです」
雨龍はため息混じりに言う。
ならなんでもっと優しくしてやらないんだ、と心底思った。
月は蒼龍を信じたがっているのに。
自分がそう言ってやればいいのだろうか。でも、自分の言葉を蒼龍は信じるだろうか。
ほかのことなら蒼龍は自分たちを信用してくれるが、月が絡むとわからない。
「…あ、兄上。
歌ってわかります?」
ふと月が言っていた歌のことを思い出し、雨龍はそう口にした。
「歌って…」
頷いた蒼龍を見下ろし、雨龍は月が呟いていた歌がどんなだったか記憶をたぐる。
「ええと、物思へば 沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂かとぞ見る、とか」
平静を装いつつも内心どきりともした。
そんな歌を、何故雨龍が知っているのだろう。まさか、月から聞いた?
「お前がよくそんな歌を知っていたな」
「いや、なんか月さんが言っていて」
「…そうか」
やはり、そうか。月か。
なら、月は昨晩のことを覚えているのだろう。
ぎゅっとトレイの端を掴む手に力を込めた。
どうしたらいいかわからない。でも、優しくしたかった。
蒼龍が月の部屋に入ると、月は寝台の上で眠っていた。
あどけない寝顔に見惚れ、我に返って戸を閉める。
近づいて、サイドテーブルにトレイを置いた。
「…月」
少し汗ばんだ頬に触れる。それだけで胸が締め付けられた。
そばの椅子に腰掛け、月の手をそっと握る。
「……ごめん」
小さな声で謝った。
「…どうしたらいいのかわからないんだ。
傷つけているのはわかってる。
…すまない」
なんだかずっと、泣き顔ばかり見ている気がする。
彼の笑顔が、思い出せない。
笑って欲しかった。笑わせたかった。
なのにもう、どうしたらいいのかわからない。方法が見つからないんだ。
「…お前を放せないんだ。
…俺を許して、…受け入れて欲しい」
彼が眠っているから、言えたのかもしれない。
手を伸ばして、月の柔らかな髪に触れた。
優しく、慈しむように撫でる。
本当はずっと、こんな風に壊れ物を扱うように、大事に触れていたかった。
お前を傷つけない存在になりたかった。
「………っ」
気付いた気持ちはあまりに重たい。
「………好きなんだ」
震える声で告げた瞬間、涙が溢れて落ちた。
何故こんなにも愛しいのかわからない。
それでも、お前じゃなければ駄目なんだ。
月の手を握りしめ、ただ涙を零す。
ぎゅっと握って、額をこすりつけた。
「…………っ」
不意にぴく、と月の指が動いた。
蒼龍は顔を上げ、月の顔を見つめる。瞼が震えて、瞳が開いた。
寝ぼけたような瞳が彷徨って、蒼龍の顔を見る。
「…………蒼、龍?」
その瞳が開かれ、かすれた声が名を呼んだ。
「……蒼龍?
…なんで、泣いて……」
「…………気にしないでくれ。
俺の勝手だ」
「……だって」
「自分が情けないだけなんだ。
お前を傷つけてばかりの自分が」
蒼龍はそう言ってまた涙を流した。
月は瞳を揺らし、きつく握られた手を見る。
これも、夢だろうか?
でも握られた手の感触や暖かさ、落ちた涙の冷たさは鮮明だ。
「…お前を傷つけない存在になりたいのに、俺には無理だ。
…お前を手放したくなくて、お前を苦しめてばかりで」
「……蒼龍」
「あの歌みたいに蛍になって、…ただそばにいられればいいのにな」
泣きながら微笑んだ蒼龍は、あの晩と同じだった。
夢かと思うほど、優しかったあの夜と。
「………蒼龍。
…あれ、…夢じゃなかったんですか…?」
「…夢じゃない。
本当は、ずっとあんな風に、…優しくしたかった」
蒼龍の言葉に胸が大きく震えた。
あれは、夢じゃなかったんだ。
「…傷つけたから、怖くて会いに来れなくて…。
でも、心配だった。
…すまない」
「…………蒼龍」
触れる手も、声も、なにもかも優しい。
蒼龍だ。ずっと、会いたかった蒼龍だ。あれは夢じゃなかった。
嬉しさで涙が溢れそうになる。
夢かうつつの境で、いつも感じていた。
優しく髪を撫でる温かな手を。
ずっとずっと雨龍なんだと思っていた。
でもさっきも感じていた。髪を撫でる優しい手。
ああ、そうか。あれは、蒼龍だったんだ。
「ごめん。月。
俺のそばにいて欲しい。
お前を捕らえることを許して欲しい。
そばにいて欲しいんだ」
「………あの」
今なら聞けるかもしれない。そう思ってどうにか上体を起こし、蒼龍を見つめる。
「…どうして、私を抱くんです…?」
「…………………性欲処理じゃないよ。
お前じゃないと駄目なんだ」
蒼龍は泣きながら柔らかく微笑んだ。
愛おしさを詰め込んだような瞳で。
「物思へば 沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂かとぞ見る」
蒼龍はあの歌を口にして、月の指先にそっと口づけた。
「いっそ蛍になって、ずっとお前のそばにいたい。
だけどそれは出来ないから…、だから、俺はお前を手放せない」
「……っ」
「お願いだ。
俺の腕の中に囚われていて欲しい」
蒼龍は手を伸ばし、月の身体をそっと抱きしめる。
蒼龍の瞳からまた涙が溢れる。
堪えきれず、月も泣いていた。
手を持ち上げ、蒼龍の身体にすがりつく。
「蒼龍…っ」
うまく声にならない。胸が震えて、涙がまたこぼれ落ちる。
信じてもいい?
大切に思われているんだって。だから抱くんだって。
自分の気持ちははっきりわからないけど、だけど、蒼龍のそばにいたい。
それは確かな真実だから。
「蒼龍が作ってくれたんですか?」
「まあ、美味しいと思うんだが」
落ち着いたあと蒼龍が差し出したグラスを受け取って、月は口元を綻ばせた。
まだ冷たいグラス。美味しそうだ。
口を付けると、心地よい甘さと酸味が広がった。
「…美味しいです」
「よかった…」
ホッと顔を緩ませた蒼龍を見て、月は微笑む。
「ありがとうございます」
「…いや、俺のせいだから…」
蒼龍は申し訳なさそうな顔をして言う。なんだか可愛いと思ってしまった。
「…これは?」
「ああ、それは…月に渡そうと思って」
なかなか渡せず、と蒼龍は言いにくそうに言う。
袋を開けてみると、繊細な細工の飴菓子だった。
「これ…」
「月は飴菓子が好きなんだろう?
…喜ばせたかったんだ」
「……ありがとうございます」
月は瞳を潤ませ、そっと飴菓子に触れる。
嬉しそうに笑った顔を見て、蒼龍は泣き笑いのような顔をした。
「…蒼龍?」
「…いや、…ずっと、…笑った顔が見たかったんだ。
…やっと見れた」
蒼龍の声は少し震えていて、心臓が大きな音を立てる。
甘くうずいた胸。
照れたように笑った蒼龍の顔をもっと見ていたくて、目を逸らせなかった。
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