第20話 死神の涙

 樽谷さんが杉浦に駆け寄った。条件反射で、私と加賀も樽谷さんの後を追った。

 樽谷さんは、真っ先に、杉浦の元に辿り着いた。樽谷さんは、杉浦の横にしゃがみ込み、杉浦の腕を取った。私と加賀も、杉浦の元に辿り着いた。

 杉浦は頭から血を流していた。だが、杉浦の口から、呻き声が漏れていた。


 杉浦は、生きている。


 樽谷さんが私たちを見た。樽谷さんの目が潤んでいた。


「加賀、救急車を呼べ。今のところ、脈もしっかりしている。城ケ崎さん、何故、今、貴方は、ここに突っ立っているんですか。早く自分の仕事をして下さい」


 樽谷さんの声が、地を這いつくばった。今にも天災を起こしそうな、樽谷さんの目からは、透明な雫が溢れ出していた。

 樽谷さんの涙を見て、侵してはならない領域に入ってしまったように、感じた。敬礼をすると、先ほど、話し掛けた女性を探した。


 女性は、口元に手を当てたまま、杉浦の姿を見詰めていた。女性の真正面に立ち、悲惨な光景を遮った。


「恐らく事務員の方ですよね? 事務の方々が詰めている建物まで、ご案内頂けますか」


「……それどころではないです、杉浦君が」


「杉浦さんについては、警察が適切に対処します。御社はフィッシングによる資金の不正送金に巻き込まれている可能性があります。ご案内頂けますね?」


 顔の筋肉が引きらないように注意しながら、真偽不明の樽谷さんの推測を伝えた。

 女性が鋭く息を飲んだ。


「私たちは、本当に、何もしていません。刑事さんですよね? 本当に何もしていないんです!」


「私の言葉をよく聞いて下さい。御社が犯罪に巻き込まれたかもしれない、とお伝えしたんですよ。あくまで任意ですが、御社の被害状況を確認したく思い、伺ったんです。それとも、御社は、犯罪のお手伝いでも、なさったんですか」


「あり得ません! ご案内します」


 惨劇の場から離れ、ライオンのケージの横にある小道に進んだ。立入禁止と書かれた看板があったが、堂々と無視した。


 肩を落としながら歩く女性の歩みは、遅かった。小道は、舗装されておらず、地面がき出しになっていた。足場の悪い小道の両脇には、木々が生えており、清涼な空気が流れていた。緩やかな坂道が続くと、古ぼけた小さな建物が見えてきた。

 女性の足取りが、余計に重くなった。バッグの中身の必要性を感じ、バッグを強く握り締めた。


 印象に残らない見た目が、むしろ特徴と言えそうな、建物に入って行った。建物の中には、机の島が、五つほどあった。とは言っても、各々の島には、机が三つほど並んでいるだけだった。黄ばんだ壁紙は傷んでおり、壁紙ががれている箇所が見えた。


 仕事をしている者は、誰もいなかった。《桜空ラボ》が、社員を他の階に避難させていた状況を思い返した。

 刺々しい口調で、女性に問い掛けた。


「誰もいらっしゃらないようですが、何処どこかに社員の方々を移されましたか」


「とんでもない。杉浦君がライオンのケージで暴れていると聞き、全員、現場に向かったんです」


「杉浦君」という呼び名が気になるが、捜査二課が、杉浦の個人情報について、プロファイリングしているだろう。今、私が問い質す必要性は、乏しい。この場にいる私の存在意義は、別にある。


 全てのパソコンやスマートフォンを破壊しかねない、と樽谷さんは主張していた。だが、幸か不幸か、杉浦の修羅場のお蔭で、ノートパソコンが、各々の机の上に、行儀よく置かれていた。スマートフォンも、机の上に放り出されていた。

 室内を見渡し終えると、女性に視線を戻した。女性は、先ほどよりも、身長が低く見えるかのように、体を小さくしていた。


「可能であれば、経理の方々のパソコンの中身を拝見できますか」


「……私は、経理部の部長ですので、私のパソコンをお見せします」


 女性は、一つの島に近寄ると、パソコンを起動させた。島には、二つ席があるのみだった。

 女性が、パソコンの前から退しりぞいた。バッグを足元に置くと、遠慮なく、パソコンをのぞき込んだ。パソコンを操作し、メール・フォルダの中身を確認し始めた。


 明らかに、怪しいフィッシング・メールが存在した。

 取引相手先から、遅延している代金の振込をかすメールだった。メールには、押してくれと言わんばかりに、リンクが付いていた。リンク先は、帝星フィナンシャル銀行のネット・バンキングをかたっていた。


「このメールに張られたリンクは、押されましたか」


 メールの仔細に目を通しながら、背後の女性に問い掛けた。女性が、消え入りそうな声で回答した。


「押しました。コアラの餌代を滞納していて、慌てて、振り込みました」


「コアラの餌代ですか」


 SNSのアカウント名である《コアラ》が思い浮かび、女性を振り返った。女性の顔は、重く沈んでいた。


「コアラの餌代は、一頭当たり年間で一千万円も掛かるんです。小桜動物園で人気のある動物は、コアラなんですが、資金調達が上手くいかなくて、支払いが遅れていました」


「そりゃそうですよ。過去に、経理部長が資金の横領を行った会社ですからね。その後、どのように、銀行に言いつくろったかは、知りませんが」


 聞き慣れた声が耳に届き、入口を見た。音を立てずに、樽谷さんが、事務室内に侵入していた。樽谷さんの目に、涙の残骸は見えなかった。普段通り、樽屋さんの顔面の筋肉は死んでいた。


「お久しぶりですね、久保さん。経理部長を交代された時にご挨拶して以来ですね。その後、私は刑事になりましたので、再会する機会はない、と思っていたんですが」

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