焼け跡の燃え滓 或いは一陽来復 その2

 昼をまわってどれくらい経ったのか、途方に暮れた凛子の姿がグリコの看板の下にあった。

 宿は天王寺という場所あたりに取った。比較的安く泊まれるエリアらしい。ただ、いわゆる日雇い労働者の街も近く、若い女性は気を付けるべき、ともネットには書いてあった。そのためできるだけ駅に近いホテルを取り、荷物だけを預けて凛子はいそいそと食事に出かけたのだ。ホテルについては、高級な宿ではないにしろ、駅近くと言うことで少し高い金額を必要としてしまった。そのため食事は安く済ませたい。食い倒れと豪語するのだ、安く美味しいものを食べさせてくれるに違いない、凛子の中で大阪の街への期待値はぐんぐん上がって行った。


 しかし、現実はそれほど甘くはなく、大阪もどうかすると東京と変わらない値段の店がほとんどで、徐々に凛子は始めていた。

 『ミナミ』と呼ばれる難波駅周辺が正真正銘のであると勝手に決めて飛び込んだのだが、メモしてきた店はいずれも美味しそうではあるが、値札を見ると皆一様に、思っていたより高い。

 なんだよ、ネットの紹介は嘘ばっかりじゃねえか、と心の中で毒づいていたのだが、加えてダブルパンチとなったのはグリコの看板下で、声をかけてくる男どもだ。

 一応、せっかくなので名所は抑えておこうと、空腹を抱えて歩いてはきたが、何度断っても、次から次へとチャラそうな男が寄ってくる。ついには外国人まで寄って来るので、ついに凛子は逃げ出してしまった。そして空腹を抱えながらあてもなく歩き続けた。

 まずい、このままではストレス解消どころか、空腹で行き倒れになる。食い倒れに来て行き倒れか、面白くもなんともない。背に腹は代えられないので、思わずオレンジの看板が目立つ丼のチェーン店へ入ろうかと思ってしまった。

 しかし、辛うじて凛子の妙なプライドが、本人曰く『食へのこだわり』が、それを押し留め、凛子はさらに歩いた。そして気が付くと、いつの間にか大阪駅の近くまで来ていることに愕然とした。頭の中で地図をイメージし、ここからここまで歩いたのか、真夏の昼間に ……お腹を空かせて。

 悲しくなって、どっと疲れが押し寄せてきた。

 よろよろと古風な寺の横にあった小さな公園に入り、木陰のベンチで生温くなったペットボトルのお茶を飲んだ。蝉が喧しく鳴いており暑さを増幅させる。

 「失敗した」

 凛子は後悔して呟いた。こうなったら今日はどこかで適当に済ませて、明日の朝に、天王寺でも大阪駅でもどこでも良いから、少しマシに見えるものを食べよう。一食くらいなら少々高くても大丈夫だ。ただし、二度と来ないぞ大阪なんか。

 ごまかしきれない悲嘆を抱えながら、疲労困憊の体で凛子は立ち上がろうとし、ふと隣のベンチを見た。

 古い着物を着た女が座っており、凛子と目が合った。


 (しまった、油断していた)

 と言われる所以が、凛子の霊感だ。だが、人には言っていないが、それは少し特殊な形で現れる。目が合った霊と『重なる』経験を伴うのだ。

 後悔したが遅く、周囲の色が消えて行き、目の前が暗転していった……


 気が付くと凛子は雑巾がけをしていた。

 これは…… 『領域』に入ったのか、あのベンチに腰かけていた女の体だ。ここはどこだ?

 凛子は霊の記憶に重なった状態を『領域』と呼んでいた。多くの場合、それは相手の霊ののもとになった記憶だ。時に殺される体験も含まれているので、あまり積極的に重なりたいとは思わない。

 慣れているとはいえ、流石に不意を突かれれば予備知識もなく、また、対処する構えもとることができなかった。しばらくは成り行きに任せるしかない。

 女は広い屋敷を雑巾がけや箒で掃いたりと忙しそうに働く。

 いつの時代だ、ずいぶんと古い。

 そう思いながらも徐々に見当がついてくる。

 女中、いや、下女というところか。そして時代は…… 明治時代だろうか、場所は言葉遣いから大阪のままだろう。

 下女は、商家などで、主に住み込みで働く従業員、と言えば適切なのかどうか、家事全般を担う労働者だ。この体の主は、と見れば、歳は15,6と言ったところだろうか。この時代ならこの年齢での労働は普通だったのだろう。

 

 ……そして、凛子が『領域』に入り、彼女にまま幾日かが過ぎた。

 これは少し長い。これまでの経験上、これほど数日間にまたがるようなは初めてだ。

 この少女は何を無念として残したのか、凛子には見定めることができなかった。

 むしろ……

 それにしても、と感心する。

 良く働く娘だ。

 実際、『とよ』と呼ばれる彼女は良く働いた。朝から晩まで掃除、洗濯、飯炊きまで。付き合いながら凛子は、自分も家事スキルが上達しているような気になってしまう。

 --たぶん旧家に嫁いでもやっていけそうな気がする

 などと到底縁のないことを考え自嘲した。天涯孤独の私がそんな夢を見るな、と。

 時折、とよの生活が早送りになるようになった。眠っているときはもちろん、単調な日々では早送りで目の前の光景が進んでいく。

 これも凛子にとっては初めての経験だった。


 凛子が重なってから初めての給金が貰えた。とよはどうするのだろうか、と思っていると、わずかな金額を貯めるため、行李の中の缶へ入れる。残りはすべて実家へ送金するようだ。家人に許しを得て郵便局まで急ぎ足で向かい為替で送るのが、都度のことのようだった。

 しかしそれもやがては早送りの中に埋もれていく。とよは何を見せたいのだろうか? 凛子は訝しく思った。

 これまで何度か経験した、霊との同化、または協調は、おそらく無意識なのだろうが、無念に対する最も強烈な体験を見せつけてくるものだった。そして時に、その体験に伴う複雑な感情が溢れかえってくることもあった。

 しかし、これほど穏やかで平穏な毎日を繰り返し見せてくるのは何故だろう?

 いくら考えても日々の生活の中で答えは見いだせなかった。


 やがて、こつこつと僅かずつでも貯めたお金が、なにか良い着物でも買えそうなくらいにまで貯まった。とよの嬉しさがひしひしと伝わってくる。行李の中の、缶に入れた金を見ながら凛子もうれしく感じていた。

 だが……


 半鐘が遠くで鳴っている。今朝がた東の方で起こった火事は消える気配が全くなく、折からの強風に煽られ瞬く間に西の方へ広がってきているそうだ。堂島にあるこの家も危ないかもしれない。家人に指示されたとよは、主人たちと荷づくりに精を出していた。自分の行李の中に己の衣類を詰め込む。そして若い衆と一緒になって、大八車へ、纏めた荷物を積み込んだ。その時、焦げた匂いに振り返ると、東の空が黒煙に覆われていた。

 これはまずいぞ! 誰かが叫んでいる。これ以上はいけない。

 商家の皆は大八車を押し始めた。とよも自分の行李を車に乗せて一生懸命に押す。

 しかし車が込み合い、一向に進まない。あちらこちらで怒声が聞こえる。やがて火の粉が舞い始めた。凛子は嫌な予感に包まれた。とよ、あんたまさかこの火事で……

 その時主人の号令で車を放棄することが決まった。皆、最小のものだけ持って走り出す。とよも行李から金の入った缶だけを抱え逃げ出そうとしたが、手を滑らせてしまった。缶は足元に落ちて金が散らばった。慌てて拾い上げたが、残りの金を拾い集められる状況ではなく、とよは諦めて残った金を缶と共にしっかりと抱え込んだ。とよの行李と散らばった金は、人の波に埋もれてすぐに見えなくなってしまった。

 火の手が見えた。炎が迫ってくる。とよは逃げることに必死になり、やがて主人たちともはぐれてしまった。火の粉が熱く、むせるような煙の臭いが、強風に乗ってとよを包んだ。そしてそれはそのまま凛子への熱さや息苦しさでもあった。

 そしてまた視界は早送りになった。


 次の場面に移った。焼け跡の外れ、かろうじて難を逃れた曽根崎の新たな商家で、とよはまた働いていた。以前の商家からは暇を出されたようだ。幸いに、缶の中にあった金は減ったとはいえまだある。また頑張れば良い。とよは前を向いていた。凛子は火事を切り抜けられたことに安堵しつつ、そんなとよの不屈な心持が愛おしくなっていた。

 しかし、一通の手紙がとよのもとへ届く。とよの父親が倒れたという知らせだった。とよは、その新たな奉公先を辞して兵庫にある実家へ戻った。幸いに父は無事であったがしばらくは世話が必要だろう。

 とよは母と共に父の世話をした。

 そうして、父の具合が落ち着いた頃、とよはまた大阪へ出た。新たな奉公先を見つけることができたのだ。ただ実家と大阪の間を通った旅費や、実家での父への世話でとよの貯金は底をついていた。缶の中には銭が少ししか残っていなかった。

 底の見えるようになった缶に、とよはどうしようもない悲しみを覚えた。そして沈みがちになっていった。

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