鉄の薔薇は凍土に咲く 〜人民の敵とされた令嬢は、粛清の嵐を越えて独裁者の椅子に座る〜

ぱる子

第1話

 拍手は、音ではなかった。それは物理的な圧力となって、巨大なコンクリートの空間を埋め尽くしていた。


 首都ツェントログラードの中央に鎮座する「人民大会宮殿」大講堂。三千人の革命青年同盟員が発する熱気は、湿ったウールの軍服と、安物の紙巻タバコ、そして熱狂的な憎悪の臭いを孕んで渦を巻いている。


 壇上の中央、まぶしすぎるスポットライトの只中に、私は立っていた。 カテリーナ・ヴォルコヴァ。十八歳。 国家治安人民委員部(N.K.G.B)長官の娘にして、党幹部の子弟が通うエリート養成校の首席。そしてつい先ほどまで、将来の書記長と目される男の婚約者だった女。


 だが今、私は「人民の敵」としてここにいる。


「同志諸君!」


 マイクを握りしめ、上ずった声を張り上げているのは、私の婚約者――いや、元婚約者となったアレクセイだ。金髪碧眼の美青年は、仕立ての良い人民服の襟元を冷や汗で濡らしながら、私を指差した。


「我々の崇高な革命精神は、最も身近な場所に潜む腐敗によって脅かされていたのだ! 私の隣にいたこの女、カテリーナ・ヴォルコヴァこそが、ブルジョワ的退廃の象徴であり、人民の血をすする寄生虫そのものである!」


 万雷の拍手。大地を揺るがすような「同意」の嵐。 私は微動だにせず、能面のような無表情でそれを受け止めていた。


 アレクセイ、私の愛しい愚か者。 貴方のその演説原稿は、誰が書いたの? その震える指先は、誰のために踊っているの?


 視線をわずかにずらす。アレクセイの半歩後ろ、控えめな場所に、その少女はいた。 エレナ。貧しい工廠労働者の娘。「革命青年同盟のアイドル」。 彼女は装飾のない粗末なブラウスを身にまとい、化粧っ気のない顔で、憂いを帯びた瞳を演出しながら、この狂騒を見つめている。まるで、やむにやまれず同志を告発しなければならなかった聖女のように。


 ああ、素晴らしい演技だわ、エレナ。 貴女が貧困を演じる裏で、どれだけの配給切符を横流しし、党幹部の寝室を渡り歩いてきたか。その薄汚い真実を知っているのは、私の父が率いる秘密警察だけだった。


 だからこそ、貴女は先手を打ったのだ。アレクセイという最大のコマを使って。


「彼女の一族は、国家の保安を担う立場を悪用し、私腹を肥やしてきた! これは社会主義への裏切りだ! 私は、カテリーナ・ヴォルコヴァとの婚約を破棄し、ここに彼女とその一党の断罪を要求する!」


 アレクセイが叫び終えると同時に、エレナが一歩前に出た。彼女はマイクを奪うのではなく、そっと彼に寄り添い、涙を浮かべて聴衆に訴えかけた。


「……悲しいことです、同志諸君。でも、私たちは理想のために、涙を飲んで膿を出さなければなりません。清らかな我々の祖国のために!」


 その瞬間、会場の熱狂は臨界点に達した。 誰かが叫んだ。「恥を知れ!」と。 それは瞬く間に巨大なシュプレヒコールへと変わる。


「恥を知れ! 恥を知れ! 人民の敵を吊るせ!」


 三千人の憎悪が、私一人に向けられる。言葉の石礫いしつぶて。 私は背筋を伸ばしたまま、冷ややかにその光景を見下ろしていた。父から叩き込まれた帝王学が、感情を凍結させている。 恐怖はない。あるのは、舞台の裏側を知る者特有の、冷めた諦観だけだった。


(馬鹿騒ぎね)


 壇上の袖から、黒い革のコートを着た男たちが現れた。国家治安人民委員部の兵士たち。昨日まで父の部下だった彼らは、今日は私を捕食するための猟犬だ。


 粗暴な手が私の両腕を掴み、後ろ手にねじり上げる。仕立ての良い制服の肩が悲鳴を上げた。 抵抗はしない。それが無意味であることを、私は誰よりも知っている。


 連行される直前、私は一度だけ振り返った。 アレクセイは顔面蒼白で視線を逸らし、その隣でエレナだけが、聖女の仮面の奥で口角をわずかに吊り上げ、私を見ていた。


 勝利の笑み。ええ、今は貴女の勝ちよ、平民の娘。


 スポットライトの熱から引き剥がされ、舞台袖の薄暗がりへと引きずり込まれる。 背後では、まだ熱狂的な拍手と罵声が続いていた。あれは、私の人生が終わったことを告げる弔鐘だ。


 冷たい金属の輪が、私の手首に嵌められた。手錠の冷たさが、現実を突きつける。 私は赤い貴族の令嬢ではなくなった。ただの肉塊、番号で呼ばれる囚人になるのだ。


「……寒くなりそうね」


 誰に聞かせるでもなく、私は呟いた。 外はマイナス二十度の極寒の冬。だが、これから私が向かう場所は、それよりも遥かに寒い場所だろう。


 重い鉄の扉が開き、私は凍てつく闇の中へと放り出された。

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