皮肉屋ツンデレピエロは、純粋お日様コックの店に足繁く通う
@kossori_013
第1話 道化師の舞台
夕暮れの陽が石畳に長い影を落としはじめると、ルナールの旧市街は一日の喧騒を静かに手放していく。古い建物の壁面に刻まれた装飾が、橙色の光を受けて淡く浮かび上がり、観光客たちは土産物を抱えて宿へと戻っていく。そのかわりに、地元の住人たちが路地の奥から姿を現す。昼と夜の境目。この街がもっとも魅力的な表情を見せる時間帯だ。
広場の中央で、一人の男が炎を操っていた。
白く塗られた顔。青と赤を基調にした鮮やかな衣装。動くたびに銀の鈴が軽やかに音を鳴らす。男はファイヤートーチを手に、まるで炎と対話するように舞い、観客たちは円を描くように彼を囲んで、その一挙手一投足に息を呑んでいる。
アシュレイは観客たちの視線を受け止めながら、意識の半分を別の世界に置いていた。炎の軌跡を追う瞳の奥では、途切れない時間の流れを常に覗き込んでいる。
三秒後、左側の老婦人が咳き込む。
五秒後、右端に立つ少年がくすりと笑う。
十秒後、広場の向こうで鳩の群れが一斉に空へ舞い上がる。
すべてが見える。すべてが分かってしまう。だからこそ——すべてが退屈だった。
アシュレイはトーチを高く投げ上げ、背後でそれを正確に受け止める。観客たちが歓声を上げた。白塗りの下で柔らかな笑みをつくり、彼は前列の若い女性に優しく視線を向ける。スマートフォンで夢中になって撮影している女性と、その横で興奮気味に覗き込む友人。
「お嬢さん」
アシュレイの声は鈴の音のように軽く心地よい。女性がはっと顔を上げる。
「未来をひとつ、教えて差し上げましょうか」
女性の瞳に、期待の色が一気に広がった。隣の友人が肘でつつき、ふたりで楽しげに笑い合う。アシュレイは女性の目を覗き込み、意識を明日の向こうへと伸ばした。
見えた。
明日の午後、カフェのテラス席。彼女の向かいには黒いスーツの男。右手の薬指には結婚指輪。彼女は知らない。三ヶ月後、同じ広場のベンチに一人座って涙を拭う姿まで、はっきりと。
「明日、あなたは運命の方と出会います」
女性の頬が一瞬で紅潮し、観客のあいだからどよめきが起こる。
「優しい笑顔をもつ方です。あなたの心を掴んで離さないでしょう」
嘘ではない。男の笑顔は確かに魅力的だった。ただし、既婚者であるという一点を除けば。
「本当?」女性が半ば震える声で尋ね、友人と顔を見合わせる。「本当に見えるんですか?」
「ええ」アシュレイはやわらかく微笑む。「未来はすでに動き始めています。あなたは幸せになりますよ。それだけは確かです」
——一時的には、だが。
観客は拍手し、女性は胸いっぱいの期待を友人と共有する。アシュレイは深々と礼をし、差し出した帽子に硬貨と紙幣が落ちていく。チャリン、チャリンという澄んだ音が石畳に響いた。
やがて観客が散り、夕闇が深まりはじめると街灯がぽつり、またぽつりと灯る。集めた金を懐にしまい、アシュレイは広場を後にした。
旧市街の路地は迷路のようで、観光客が入り込むことはまずない。地元民しか知らない抜け道を通り抜け、アシュレイは人影のない細い路地に入った。古い倉庫の壁に寄りかかりながら懐から小さな鏡を取り出す。
白塗りの顔を丁寧に拭い落とす。布に染みていく色彩の下から現れたのは、どこか物憂げな美貌だった。中性的で、影を宿した瞳。鏡に映る自分の素顔を数秒見つめ、彼は短く息を吐いた。
「どうせ、明日の相手は既婚者だ。三ヶ月後には泣くことになる」
独り言の声は、誰もいない路地でひんやりと響いた。さきほどの柔和な調子は跡形もなく、代わりに冷たく尖った響きが滲む。
「だが……希望を持てた。それだけで彼女は幸せだろう。三ヶ月も夢を見られるのだから」
すべてのメイクを落とし終えた瞬間、ゆっくりと口元に笑みが広がる。それは先ほど広場で見せた柔らかな笑みとは別物の、底冷たい笑みだった。
「人間は面白い。希望さえ与えれば、どんな未来も美しく見える。そして、高く登るほど落ちた時の衝撃は大きい」
鏡をしまい、衣装の上にコートを羽織る。鈴が一度だけ微かに鳴り、すぐに静寂が戻った。
その時、路地の奥から足音が響いた。二人分。わざと音を立てる歩き方。アシュレイは視線を上げずに煙草に火をつける。
「よう、ピエロ」
闇の中から低い声。黒いジャケットの男が二人。ひとりは金のチェーンを首にかけている。下っ端のマフィアだ。二週間前にも来た顔ぶれ。今日の用件は場所代だろう。
アシュレイは煙草の煙を細く吐き、二人をゆっくりと見上げた。
「場所代なら、ヴァレンティンと話はつけてある」
「へぇ?」金チェーンの男が鼻で笑う。「そんな話、俺たちは聞いてねえな。ここは俺たちの縄張りだ。金を払うか、とっとと失せるか、好きなほう選びな」
アシュレイは煙草を指に挟んだまま、静かに時間の流れへ意識を滑り込ませた。
三秒後、男が彼の襟を掴む。
五秒後、相棒がナイフを抜く。
十秒後——ふたりとも地面でうめいている。
だがそれは、数ある未来の可能性のひとつにすぎない。
もっと良い道筋があった。
「今夜」アシュレイは柔らかく告げた。「あなたは上司に怒鳴られます」
金チェーンの男が動きを止める。
「なんだと?」
「ですが、明後日には——昇進のチャンスがやって来る」
男の表情が一変した。疑念と期待が入り混じり、獲物を見つけた獣のような光が宿る。
「本気か?」
「ええ」アシュレイはあの広場でのような、人を安心させる笑顔を浮かべた。「運は、あなたに向いています。ただし——今夜は我慢すること。上司の言うことに逆らわず、黙って従うのです。それが、チャンスをつかむ条件ですよ」
男は相棒と目を合わせ、興奮を隠しきれない様子だ。
「昇進……マジかよ?」
「見えるんです」アシュレイは男の瞳を覗き込む。「あなたが賢ければ、ね」
もちろん、実際には何も見えていない。真実の未来は別にある。今夜、男は些細な仕事を命じられる。しかし、“昇進”という甘い言葉によって判断は狂い、独断で大きな仕事に手を出すだろう。結果は決まっている。
男は地に落ち、組織内の立場は悪化し、長い間雑用係として飼い殺しにされる。
「ありがとよ、ピエロ」
男たちは満足げに笑いながら路地を去った。アシュレイはその背中を見送り、静かに口角を上げた。
「明後日が楽しみだ」
衣装を脱ぎ捨て、普段着へと着替える。闇に紛れ、道化師の姿は消えていく。残されたのは、細身の物静かな青年——黒いシャツに濃紺のパンツ。街中に紛れても振り返られることのない、ごく平凡な若者の姿だった。
アシュレイは衣装をバッグへ詰め込み、夜の街へ歩き出した。ネオンの光が濡れた舗道に淡く反射し、遠くのバーからは笑い声が漏れ、どこかのレストランからは香ばしい匂いが漂ってくる。
雑踏の中をすり抜けながら、彼は無意識に周囲の人々の“未来の断片”を拾い上げていた。すれ違う人の数秒後、数分後、時には数時間後までが、まるで短い映像のように脳裏へ流れ込んでくる。
前を歩く老人は——三歩先で転ぶ。
窓際のカフェで寄り添うカップルは——十分後に口論を始める。
角を曲がった先にいる若い母親は——五分後、子どもの手を引いて泣いている。
すべてが見える。
すべてが分かる。
そして、すべてが他人事だった。
アシュレイは足を止めることなく歩き続けた。老人に注意を促すことも、カップルの喧嘩を止めることも、泣く母親に声をかけることもない。ただ傍観し、通り過ぎていくだけ。
彼にとって、人々は舞台に立つ役者で、自分はその観客に過ぎない。時折、興味を引く役者の台本を指先で少し書き換えてやる。その程度の関わり方でちょうどよかった。
新市街へ入ると景色は一変する。高層ビルが夜空へ伸び、道路には車列が途切れることなく続いていた。アシュレイは、馴染みのバーで軽く飲もうかと考えたが、気分が乗らずに思い直す。今夜は人と話す気分ではなかった。
細い路地を抜け、古びたアパートの前で立ち止まる。錆びた鉄階段を上り、三階の角部屋の扉を開く。部屋は簡素そのものだった。ベッドがひとつ、テーブルと椅子がひとつずつ。壁には飾り気がなく、窓からは向かいのビルの無機質な壁だけが見える。
バッグを床に置き、アシュレイはベッドへ身を投げた。天井をぼんやりと見つめる。古い染みがいくつも広がっている。
未来が見えるということは——呪いだ、と彼は思う。
人は未来を知りたがる。占いの店は賑わい、星占いは毎月の常連記事だ。しかし、本当に未来が見える生活がどれほど退屈か、ほとんどの人は知らない。
すべては予定調和。
すべては既定路線。
驚きも不安も期待も、あらゆる感情が色を失っていく。
だからせめて、他人の未来を弄ぶことで小さな刺激を得ていた。希望を与えては壊し、期待を持たせては裏切る。それが唯一、自分を退屈から遠ざける手段だった。
その時、携帯電話が震えた。画面を見ると、エリオからのメッセージだった。
『明日、店に来い。新メニューの試食を頼む』
アシュレイは返信もせず、携帯を無造作にベッドへ放り投げた。
エリオ。街でただ一人、アシュレイが“弄べない”男。
なぜか——エリオの未来を見ると、いつも明るいものしか見えない。嫌な出来事も、悲しい影も何ひとつ浮かばない。まるで世界が彼だけを優しく扱っているかのようだった。
それが、気に入らないのか。
それとも——羨ましいのか。
アシュレイは目を閉じた。明日のことは、明日考えればいい。今夜は眠ろう。夢の中だけは、未来が見えない。唯一、心が安らぐ時間だ。
窓の外では、夜の気配が止むことなく続いている。車のクラクション、どこか遠くの店から漏れる音楽、通りを歩く人々の笑い声。ルナールの夜は眠らない。
そして、道化師の仮面を脱いだ青年は、誰にも知られぬまま、静かに孤独へ微笑んでいた。
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