運の悪い山田さん
山田さんは、世界でいちばん運の悪い男だった。
いや、正確に言えば――“山田さん”という名前を持つ者は、世界でいちばん運が悪い。
なぜなら、「山田」という姓はありふれている。あまりに、ありふれすぎている。
そしてこの国には、一つの古い言い伝えがある。
――同じ名前が多すぎると、運勢が割れる。
信じがたいが、統計的にも奇妙な一致がある。
「山田」という姓の人々は、他の姓に比べて小さな不運に遭う確率が高いらしい。
自転車のパンク率、電車の遅延遭遇率、落とし物の経験数――
どれを取っても微妙に多い。ほんの1%とか2%の差だが、膨大な人数がいるせいで、その“微妙な差”が積もり積もってしまう。
そして山田さん本人は、それを骨身に染みて実感していた。
財布はよく落とす(大体見つかるが、中の千円札だけなくなっている)。
雨の日に傘を持って出ると晴れ、持っていかないと必ず降る。
福引では末等のティッシュだけを三十年引き続けている。
「でもまぁ、死ぬほど悪いことは起きないんですよ」
いつも山田さんは苦笑いしていた。
山田さんの“不運”は、致命的ではなく、ただただちょっとずつ人生を削っていくような、そんな種類のものだった。
*
そんな山田さんが、ある日、会社を早退した。
理由はこうだ。
「ちょっと占い師に呼ばれまして」
同僚の誰もが「またか」という顔をした。
山田さんは昔から、妙に占い師に好かれる。道を歩けば呼び止められるし、商店街の占いコーナーでは向こうから手招きされるほどだ。
――そしてその日は、いつになく緊迫した声で呼び止められたのだという。
「あなたの“山田力(やまだりょく)”が限界です」
“山田力”。
山田姓の者が生まれながらに分け合う、目に見えない“運の総量”のことらしい。
「名字に多くの人がいるほど、運は割り算されて薄くなるんです」
占い師は真剣な目で言った。
「そしてあなたの“山田力”が、今、限界近くまで薄まっています」
「はぁ……」
「放っておくと、近日中に“山田さん特有の大災厄”が起きます」
「特有なんですか?」
「ええ。ありふれた名前であるがゆえに、起こりうる最悪の現象――“山田崩れ”です」
意味のわからない単語に、山田さんは目を丸くした。
占い師は説明した。
「たとえば、“木村さん”は木の運勢、“佐藤さん”は砂糖――つまり甘味の運勢を持っています。
しかし“山田さん”は、“山の田んぼ”――あまりに広く、漠然とした土地の気が宿っている。
だから不運が集積すると、周囲の出来事を“耕し直すように”かき混ぜてしまうんです」
「周囲を……耕す……?」
「はい。現実の秩序が、一度“ゼロ地点”に戻る可能性があります」
簡単に言えば――“全部がリセットされる”ということだった。
そんな大事になる前に、対処する方法が一つだけあるらしい。
それは、
「自分以外の山田さんと“運の結び直し”をする」
というものだった。
*
そこから山田さんの奇妙な旅が始まった。
全国の山田さんに会って、運を分け合う儀式――握手するだけだが――を繰り返す。
山田太郎(54)、山田花子(71)、山田理央(12)、山田蓮(25)……
名字が同じというだけで、行く先々で話が弾み、笑いが生まれ、時には愚痴を聞かされ、時には人生相談までされた。
そして握手を交わすたびに、山田さんはほんの少し元気になっていく気がした。
ある高齢の山田さんは、握手しながら言った。
「わしら“山田”はな、数が多いからこそ、助け合えるんじゃよ」
若い山田さんは、にやりと笑って言った。
「山田ってだけで仲間って、ちょっと面白いっすね」
旅の最後に、山田さんは故郷に着いた。
小さな神社の階段に、学生時代のあだ名で呼ばれた声が響く。
「おーい、ヤマちゃん!」
昔の同級生――もちろん山田さんだ――が手を振っていた。
二人は久々に向かい合い、力強く握手を交わした。
その瞬間、風がふっと吹いた。
胸の奥の重さが、すっと消えた。
「これで……“山田崩れ”、防げたかな」
「さぁな。でもさ」
友人の山田さんは笑った。
「山田って、一人だと運が薄いのかもしれないけど……
たくさんいるから、助け合えるんだろ」
その言葉に、山田さんは深く頷いた。
*
翌朝、山田さんのアパートのポストに封筒が届いていた。
差出人は、あの占い師だった。
――「大災厄は回避されました。
日本の“山田力”は、今日も安定しています。」
そして最後に一文。
――「あなたが動いたおかげで、今日も日本は平和です。
さすが“山田さん”です。」
山田さんは、笑いながら空を見上げた。
世界でいちばんありふれていて、
世界でいちばん特別な名前。
山田さんは、今日も少しだけ幸せだった。
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