第4話 海辺の伝承


 寒さが本格的になり、潮風が凍てつくような十二月に入った。


 みさきの配達ルートで、最も神経を使う場所は、灯台の下にある急峻な坂道だった。カーブの先に、黒い岩がむき出しになった断崖がある。地元の人間は、そこを「うしお鳴りの場」と呼んだ。


 あの日、悠人さんから聞いた「根っこ」の歌の続きが、頭から離れない。

「葉に恋人のようにいつでも触れてる大気だって、そう。太陽の光だってそうなんだよ」


 悠人さんは、あの歌が自分の祖父から教わった言葉だと言った。だが、みさきの祖母は、あれは汐さんの歌だったと言っていた。汐さんは、海を見て、この土地のすべてと対話していた人だと。


 一九六七年。汐さんが亡くなった年。みさきが生まれる三〇年以上も前の過去だ。にもかかわらず、その女性の言葉が、なぜ今、二人の二十代の若者の中で響き合っているのだろう。


 みさきは、郵便物を届ける途中の休憩で、地元の小さな漁港の売店に立ち寄った。店番をしていたのは、幼い頃から知る古老だった。


「お爺ちゃん、源一郎さんの話、覚えてる?」


「源(げん)さんか。懐かしいな。あの人は都会から来たのに、この岬のすべてを知ろうとしてた。賢すぎるあまり、いつも寂しそうだったが…」


 古老はそう言って目を細めた。そして、小声で付け加える。


「源さんが一番寂しそうだったのは、あの子がいなくなってからだ。あの子がこの世のすべてを明らめたって、噂された後でな」


「明らめた?」


「ああ。『諦めた』んじゃないんだ。源さんがそう言ってた。『あの子は、自分だけが知っている真実を見つけて、すべてを明るく見極めた(明らめた)んだ』って。そして、その秘密を、誰にも言わずにこの岬から去っていった。その時、源さんはまだ二十代だったはずだ……まだ若かったのに、随分と大きな秘密を抱えたようだった」


 二十代。


 みさきは息を呑んだ。悠人さんは今二十九歳だ。そして、祖父である源一郎さんは、汐さんを失った時に、ちょうど二十九歳だった。


 この事実が、みさきの胸に、冷たい潮水のように染み込んできた。


 悠人さんのあの寂しさの正体は、単なる孤独ではない。それは、源一郎さんから受け継いだ、二〇代の青年には重すぎる、過去の喪失の影なのだ。


 そして、汐さんが死をもって「明らめ」に至った二十七歳。みさき自身が、今、まさにその年齢(二十七歳)を生きている。


 みさきは、自分が今、過去の因縁と現在の生との間に立っていることを、明確に感じた。


 彼女の配達する郵便物や小包は、人々の現在の想いを運ぶ。しかし、みさき自身が、知らず知らずのうちに、汐の思慕と源一郎の秘密という、五十数年前の「便り」を、悠人という受信者に繋ぐ媒介者になっていたのだ。


 バイクに戻り、エンジンをかける。


 風は、一層強くなっていた。それはもはや、単なる気象現象ではない。悠人さんの祖父が抱えた喪失の重みであり、汐さんが残したかった「生きたしるし」そのもののように感じられた。


 みさきはヘルメットのシールドを下げ、凍てつく潮風の中へ進んでいく。自分のこの二十七歳の生が、過去の悲劇的な因縁に、希望という光を灯すことを、彼女は無意識のうちに求め始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る