裏切り
逃げる、という行為は、人間の最も原始的な防衛本能だ。
教室で爆発した嘲笑の熱波から逃れるように、僕は廊下を走っていた。
上履きのゴム底がリノリウムの床を擦るキュッ、キュッという音が、自分の悲鳴のように聞こえる。
心臓が早鐘を打っているのは、走っているからではない。恐怖と、混乱と、そして言いようのない屈辱感が、血液と共に全身を駆け巡っているからだ。
偽善者。
豪徳寺が吐き捨てたその言葉が、呪いのように脳内で反響していた。
違う。僕はただ、平和を作りたかっただけだ。みんなが笑って過ごせる場所を作りたかっただけだ。
それなのに、なぜ?
なぜ、僕の差し出した手は「餌付け」と解釈され、僕の笑顔は「あざ笑い」と見なされたのか。
北校舎への渡り廊下に出ると、冷たい風が吹き抜けた。
人気はない。この先にあるのは特別教室棟だけで、放課後ならいざ知らず、昼休みに好んで近づく生徒はいない。
あそこへ行けば。
生物準備室へ行けば、藤堂先輩がいる。あのアールグレイの香りに包まれれば、この悪夢もただの「社会学的現象」として分析し、消化できるかもしれない。
縋るような思いで足を速めた時だった。
前方の階段の踊り場から、誰かが降りてくるのが見えた。
僕は反射的に足を止めた。
逆光で顔が見えにくい。だが、その猫背気味のシルエットには見覚えがあった。
吉川ナオ。
彼もまた、僕に気づいて足を止めた。
逃げるでもなく、近づくでもなく、ただ階段の数段上に立ち尽くし、冷ややかな目で僕を見下ろしていた。
その手には、飲みかけのいちごオレが握られていた。豪徳寺に買いに行かされたものではなく、自分自身のために買ったものだ。
「……吉川」
僕の声は掠れていた。
彼に聞きたいことは山ほどあった。なぜ豪徳寺に告げ口をしたのか。なぜ僕を売ったのか。
でも、喉から出たのは、ひどく情けない問いかけだけだった。
「なんで……」
吉川は答えなかった。
彼はゆっくりとストローを口に含み、ズズッといちごオレを吸い上げた。その動作には、僕に対する遠慮も、罪悪感も見当たらなかった。
飲み終えると、彼はストローを噛みながら、低い声で言った。
「……ザマァねえな」
耳を疑った。
彼がそんな言葉を使う人間だとは思わなかった。いつもおどおどして、ヘラヘラ笑って、「ごめんね」を繰り返していた吉川。
だが、今、目の前にいる彼は、僕が知っている「弱者」の顔をしていなかった。
そこにあったのは、自分より下に落ちた人間を見て安堵する、暗い優越感だった。
「お前が、言ったのか」
「ああ、言ったよ」
吉川は悪びれもせずに認めた。
「相馬が変な宗教にハマって、みんなを実験台にしてるって。豪徳寺に詳しく教えてやったよ」
「嘘だろ……僕たち、仲間じゃなかったのか? 一緒に虐げられて、一緒に耐えてきた仲間じゃ……」
「仲間?」
吉川が鼻で笑った。
「笑わせんなよ。お前、俺のこと『仲間』だなんて一度も思ってなかっただろ」
「思ってたよ! だからあの時、豪徳寺から庇ったし、チョコだって……」
「それがだよ!」
吉川が叫んだ。
階段の壁に声が反響する。彼は握りしめた紙パックを僕に投げつけた。
中身の残りが少し飛び散り、僕のズボンの裾を汚す。
「その『してやった』って顔がムカつくんだよ! 『可哀想な吉川君を助けてあげる、心優しい僕』。……お前、自分だけが良い気分になりたかっただけだろ?」
僕は言葉を失った。
否定したかった。でも、心の奥底を見透かされたような気がして、声が出なかった。
確かに、あの時――豪徳寺から彼を救った時――僕の中にあったのは純粋な正義感だけだっただろうか?
「やってやった」という全能感。「僕には力がある」という陶酔。そして、「何もできない彼」に対する、無意識の見下し。
それらがなかったと、神に誓って言えるだろうか。
「俺とお前は、ずっと泥の中にいた。底辺同士だった」
吉川は階段を一段降りた。
「なのに、お前だけ急に『上』に行こうとした。聖人ぶって、笑顔振りまいて、俺たちを見下ろして……。それがどれだけ腹立つか、お前わかんねえだろ」
「……だからって、豪徳寺に売るなんて」
「売るさ。生き残るためだもん」
吉川の目に、狂気じみた光が宿る。
「いじめってのはな、椅子取りゲームなんだよ。誰か一人が座れなくなれば、他の奴は助かる。お前がターゲットになれば、俺はターゲットから外れる。単純な理屈だろ?」
彼は僕の横を通り過ぎようとした。
僕は思わず、彼の腕を掴んだ。
「待てよ! そんなの、間違ってる! 僕たちが争ったら、豪徳寺の思うツボじゃないか。団結すれば……」
「離せよ!」
吉川が僕の手を振り払った。
「団結? ボノボ? ……生物部の先輩から聞いたぜ。お前がそんな本にかぶれてるって」
なぜ、先輩を知っている?
僕は凍りついた。
「お前さ、人間なめんなよ。俺たちは猿じゃねえんだ。そんな綺麗事で飯が食えるかよ」
吉川は僕を睨みつけた。その瞳の奥には、深い絶望があった。
彼もまた、苦しんでいるのだ。
自分の弱さを直視し、友人を売ってでも生き延びようとする自分の醜さに、誰よりも彼自身が傷ついている。
でも、その痛みを麻痺させるために、彼は僕を憎むことを選んだのだ。
ルサンチマン(怨恨)
弱者が強者に対して抱く嫉妬。しかし、吉川が抱いたのは、強者である豪徳寺への嫉妬ではなく、「弱者のくせに清くあろうとした」僕への嫉妬だった。
泥の中にいる者は、空を見上げる者を許さない。
足を掴み、引きずり下ろし、同じ泥の味を味わわせずにはいられないのだ。
「……行けよ、相馬」
吉川は吐き捨てるように言った。
「お前の大好きな『サンクチュアリ』へ。……ま、もう手遅れかもしれねえけどな」
手遅れ?
どういう意味だ。
不吉な予感が背筋を駆け上がった。
僕は吉川をその場に残し、階段を駆け上がった。
背後で、彼が何かを呟いた気がしたが、聞こえなかった。
北校舎の三階。
廊下は薄暗い。
一番奥にある生物準備室のドアが見えてくる。
そこは、僕にとっての希望の砦。アールグレイの香る、優しい場所。
だが、近づくにつれて、異変に気づいた。
ドアの前に、何かが散乱している。
白い紙屑。コンビニのゴミ。空き缶。
そして、ドアにはガムテープで紙が貼られていた。
『カルト教団』
『キモオタ』
『死ね』
マジックで殴り書きされた罵詈雑言。
吉川だけじゃない。クラスの誰か、あるいは噂を聞きつけた他の生徒たちが、面白半分でやったのだろう。
悪意の祭り。
集団心理という怪物が、僕の大切な場所を踏みにじっていた。
僕は震える手で、ドアに貼られた紙を剥がそうとした。
粘着力が強く、綺麗に剥がれない。爪が痛む。
涙が出てきた。
僕のせいだ。
僕が調子に乗って「実験」なんてしたから。
僕が「世界は変えられる」なんて傲慢なことを思ったから。
その代償を、この場所と、先輩たちが払わされている。
ドアノブに手をかける。
鍵は開いていた。
ゆっくりとドアを開ける。
中の空気は、いつものように温かくはなかった。
冷たく、静まり返っていた。
そこに広がっていた光景を見た瞬間、僕の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
サンクチュアリは、もうそこにはなかった。
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