はぐれ猿たちの群れ

 放課後の生物準備室には、独自の重力圏が存在する。

 廊下一枚隔てた向こう側は、部活動へ向かう生徒たちの足音や、教師の怒鳴り声、嬌声と嘲笑が飛び交う「チンパンジーの森」だ。そこでは時間は矢のように速く流れ、空気は常にささくれ立っている。

 だが、重厚な木の引き戸を開けて一歩足を踏み入れると、そこは深海のように静謐で、時間の流れがとろりと粘度を増す。

 翌日の放課後。

 僕は、昨日よりも少しだけ軽い足取りで、そのドアの前に立った。

 ノックをする。

 「どうぞ」という藤堂先輩の声。

 僕はドアを開けた。昨日と同じ、湿った土と薬品の匂い、そしてアールグレイの香り。

 だが、今日は昨日とは違った。

 先客がいたのだ。

 部屋の隅、標本棚の影にあるパイプ椅子に、小柄な男子生徒が座っていた。

 一年生だろうか。制服がまだ体に馴染んでおらず、少しブカブカに見える。分厚い眼鏡をかけ、背中を極端に丸めて、膝の上に置いた分厚いハードカバーの本に顔を埋めるようにして読みふけっている。

 まるで、外敵から身を守るために甲羅に閉じこもった亀のような姿勢だ。


「おや、来たね。新入りのボノボ君」


 実験台に腰掛けていた藤堂先輩が、試験管を振りながら僕を迎えた。


「紹介しよう。彼は日下部(くさかべ)君。一年生だ。ここの常連客の一人だよ」


 名前を呼ばれ、少年がビクリと肩を震わせた。

 恐る恐る顔を上げる。眼鏡の奥の瞳は、警戒心と不安で揺れていた。草食動物が、茂みの中から肉食獣の気配を感じ取った時の目つきだ。


「あ……どうも」


 蚊の鳴くような声。

 僕は昨日習ったばかりの「ボノボ・メソッド」を実践しようとした。敵意がないことを示すための、武装解除の微笑み(ディスアーミング・スマイル)。

 口角を上げ、目尻を下げる。

 心の中で「僕は敵じゃないよ」と唱える。


「こんにちは。二年の相馬です」


 しかし、僕の笑顔が引きつっていたのか、あるいは彼自身の対人恐怖が強すぎるのか、日下部君はさらに小さく身を縮めてしまった。


「す、すみません……僕、邪魔なら、帰ります……」


「いやいや、待って」


 先輩が試験管立てを置いて、苦笑した。


「湊君、君の笑顔はまだ『作り笑い』の成分が強いね。不気味の谷現象を起こしてるよ」


「えっ、そうですか?」


「日下部君も、逃げなくていい。彼は昨日入ったばかりの新人だ。君と同じ、教室の空気に適応できない『絶滅危惧種』だよ」


 絶滅危惧種。

 その言葉に、日下部君の表情がわずかに緩んだ。

 彼は僕をまじまじと見つめ、それから視線を自分の膝元の本に戻した。

 僕は彼が読んでいる本のタイトルを見て、ぎょっとした。

 『中世ヨーロッパにおける拷問と処刑の全史』。

 表紙には、鉄の処女(アイアン・メイデン)の禍々しいイラストが描かれている。


「……すごい本読んでるね」


「あ、これ……興味、ありますか?」


 僕が声をかけると、日下部君の瞳に、不意に異様な熱が灯った。


「これ、すごいんです。魔女狩りの時代の尋問技術が、いかに体系化されていたか……肉体的な苦痛よりも、精神的な恐怖を与える心理戦の記述が詳細で……」


 彼は早口でまくし立て始めた。先ほどの怯えた様子はどこへやら、堰を切ったように知識が溢れ出してくる。

 僕は圧倒されて、ただ頷くことしかできなかった。


「ストップ、日下部君」


 先輩が手を叩いて制止した。


「君のその『過剰な知識欲』と『文脈を無視したマシンガントーク』が、クラスで浮いている原因だって、学習したはずだろう?」


「あ……」


 日下部君はハッとして口をつぐみ、また亀のように首をすくめた。

 顔が真っ赤になっている。


「す、すみません……また、やっちゃいました。……キモいですよね」


「キモくないよ」


 僕は素直に言った。


「僕も、ボノボの本を読んで感動してたところだから。……マニアックさで言えば、どっちもどっちだよ」


 日下部君は驚いたように僕を見上げ、それから照れくさそうに少しだけ口元を緩めた。

 彼の生存戦略は「知識の殻に閉じこもること」なのだろう。

 外界の理不尽な暴力やコミュニケーションから身を守るために、自分だけの堅固な城壁を築いているのだ。

 その時だった。

 

 ガララッ!

 ノックもなしに、引き戸が乱暴に開け放たれた。

 入ってきたのは、この薄暗い実験室にはあまりに不釣り合いな、色彩の暴力だった。

 

 明るい茶色に染めた髪。校則ギリギリまで短くしたスカート。ルーズソックス。派手なネイルアート。

 いわゆる「ギャル」だ。

 彼女は教室の中を一瞥もしないまま、ドカドカと中に入ってくると、窓際の日当たりの良いスペースに自分の鞄を投げ出した。


「あー、マジうざ。死ねばいいのに」


 独り言のように吐き捨てると、彼女はそのまま床に座り込み、耳にイヤホンをねじ込んでスマートフォンの画面をタップし始めた。

 僕と日下部君は呆然としてその様子を見ていた。

 嵐のような侵入者。

 どう見ても、カースト上位の「一軍」女子だ。なぜこんな場所に?


「やあ、愛名(あいな)。今日は機嫌が悪いね」


 藤堂先輩だけが、動じることなく声をかけた。

 彼女――愛名ミチル先輩は、イヤホンを片方だけ外して、面倒くさそうに顔を上げた。


「あ? 部長、いたの。……てか、なんか人増えてるし」


 彼女の鋭い視線が僕に向けられる。

 つけまつげの奥の瞳は、見た目の派手さに反して、氷のように冷たかった。


「何見てんの? 見世物じゃないんだけど」


「あ、すみません……」


「チッ」


 彼女は舌打ちをして、再びスマホの世界へと没入していった。

 拒絶。

 完全なる拒絶だ。


「彼女は愛名ミチル。三年生だ」


 先輩が小声で解説してくれた。


「見た目は派手だけど、群れるのが嫌いな一匹狼さ。クラスの女子グループ特有の『同調圧力』とか『陰口大会』に耐えられなくて、ここを避難所にしてる」


「……ギャルなのに?」


「ギャルだからこそ、だよ。派手な外見は、彼女なりの『擬態』だ。強く見せることで、他人を寄せ付けないためのね」


 僕は愛名先輩の背中を見た。

 スマホを操作する指先は速いが、その背中はどこか小さく、頑なに見えた。

 彼女もまた、戦っているのだ。

 「みんなと同じになれ」という圧力と。

 奇妙な光景だった。

 生物学オタクの部長。

 拷問マニアの陰キャ一年生。

 一匹狼のギャル。

 そして、ボノボになりたい僕。

 

 共通点は何もない。趣味も、性格も、カーストもバラバラだ。

 教室にいれば、決して交わることのない四人が、この狭い部屋に集まっている。


「これが『並行遊び(パラレル・プレイ)』だよ」


 藤堂先輩が紅茶を注ぎながら言った。


「幼児や、ある種の動物に見られる行動だ。同じ空間にいても、一緒に遊ぶわけじゃなく、それぞれが別のことをしている。でも、互いの存在は認識し、安心感を得ている」


 先輩は三つのカップに紅茶を注ぎ、僕と日下部君、そして愛名先輩の足元に無造作に置いた。


「無理に会話する必要はない。空気を読む必要もない。ここは『群れ』からはぐれた個体が、羽を休めるための止まり木だ。……好きなように過ごすといい」


 愛名先輩は、置かれた紅茶を一瞥し、無言でカップを手に取った。

 日下部君も、恐る恐るカップに口をつけた。

 

 静寂が戻る。

 だが、それは僕が教室で感じる「針のむしろ」のような静けさとは違っていた。

 日下部君がページをめくる音。

 愛名先輩のリズムゲームの微かなタップ音。

 水槽のエアポンプの音。

 それらが不思議と調和して、心地よいBGMになっている。

 僕は深く息を吸い込んだ。

 アールグレイの香りが胸いっぱいに広がる。

 「仲間」と呼ぶには、あまりにバラバラだ。

 でも、ここには「敵」がいない。

 誰かが誰かを支配しようとしたり、評価したりしない。

 ただ、そこに在ることが許されている。


(悪くないな)


 僕は心の中で呟いた。

 チンパンジーの森の地下深くに、こんな空洞が広がっていたなんて。

 僕はリュックから、昨日のボノボの本を取り出した。

 まだ読みかけのページを開く。

 

 隣で、日下部君がちらりとこちらを見た。

 僕が本の表紙を見せると、彼は小さく頷き、また自分の世界へと戻っていった。

 言葉はいらなかった。

 その小さな頷きだけで、僕たちは「互いに無害である」という協定を結んだのだ。

 窓の外では、運動部の掛け声が遠く聞こえる。

 「ファイトー!」「オー!」という、結束と闘争の雄叫び。

 僕たちは戦わない。声も出さない。

 でも、僕たちは今、ここで確かに生き延びている。

 こうして、僕の「二重生活」が始まった。

 昼間は教室で息を潜める弱い猿として。

 放課後は、このアンダーグラウンドで、ボノボの知恵を学ぶ研究員として。

 だが、平和な時間は長くは続かない。

 藤堂先輩が、ホワイトボードの前でニヤリと笑った。


「さて、メンバーも揃ったことだし。……そろそろ始めようか。湊君のための、実践的トレーニングを」


 その目は、楽しげに、しかし鋭く光っていた。

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