第4章 ① アラサーでも泣いちゃうし、朝風呂で死にたくなっても、肺は裏切ってくる

◇ 橘 陽向


 俺は、自分の腕の中で小さく震えている先輩の背中を、どうすることもできずに見つめていた。


 声を殺そうとしているのに、枕元から、かすかにすする音が聞こえる。シクシクと、小さく、でも途切れずに。


(……泣かせるつもりなんて、なかったのに)


 さっきまで「可愛い」とか「綺麗」とか、好き勝手に言っていたくせに、いざ先輩が本当に泣き出した途端、俺は完全にフリーズしていた。


 触れれば、もっと傷つける気がした。

 何か言えば、そのどれもが、先輩を追い詰める刃になりかねない。


 何もできない。

 何もする資格がない。


「……ごめんなさい、先輩」


 耳元で、小さくそう呟いてから、俺はそっと先輩から腕をほどいた。

 布団から抜け出し、自分の側の布団を持ち上げて、畳の上をゆっくりと滑らせる。


 先輩の布団との間に、ちゃぶ台をずず、と引きずって持ってきて、わざと大きな境界線を作った。


 距離を取ることしか、今の俺にはできない。


 しばらくすると、先輩の泣き声は少しずつ小さくなっていき、代わりに、浅く不規則な寝息のような音が聞こえ始めた。


(……本当に、最低だな、俺)


 背中を向けたまま、その気配だけを確かめて、ようやく自分の布団に横になる。

 けれど、目を閉じても、さっきの先輩の震えと、濡れた頬の感触が頭から離れなかった。


 その夜、俺は、ほとんど眠れなかった。



 朝日が障子越しに差し込む眩しさに、ようやくまぶたが持ち上がる。


(……あ、寝落ちしてた)


 ぼんやりとした頭のまま視線を横に向けると、ちゃぶ台の向こう側で、先輩がこちらを見ていた。


 目が合う。


 時が止まったみたいに、お互い、一ミリも動かない。


 数秒間の、重い沈黙。


 先に動いたのは、俺だった。

 急いで身体を起こし、先輩から視線を逸らして、畳の上に両手をつく。


「……おはようございます、先輩」


 声が少し震えていた。昨日の自分の言動を思い返すと、胃がねじれるような気分になる。


「……あの、昨日は、本当に――」


 謝らなきゃ。ちゃんと謝らなきゃ。

 そう思って言葉を継ごうとした瞬間、


 先輩は、ぼんやりした顔のまま、枕元の手拭いを掴んだ。


 そして、俺のほうを一度も見ずに、そのまま立ち上がり、すっと部屋から出て行ってしまった。


 閉まる襖の音だけが、やけに大きく響いた。




◇ 相沢 拓海


 俺は、ぼんやりした頭のまま、陽向の声なんか聞こえないふりをして、タオルだけ掴んで朝風呂へ逃げ込んだ。


 昨日、何があったっけな……。

 俺、抱かれたんだっけ……? いや、多分セーフだろ……。

 だって、惨めさで頭がぐっちゃぐちゃになったあと、泣いてる自分の記憶しかない。

 まあ、寝たあとに何かされてても、もうどうしようもねーけどな。

 ……多分、ないだろ。ないってことにしよう。あいつに「襲った?」なんて聞けるわけないし。


 っていうか、ヤバ。今ふつうに俺、裸じゃん。


 急いで大浴場のドアを確認するけど、陽向の姿はない。


「……さすがに来れねーか」


 なら、まあ、ヤッてねーだろ。うん、たぶん。

 ――一晩弄んで、飽きただけかもな。

 いーけど。俺の知らない間に、痛くない範囲で遊ばれてたんなら、別にそれでいーけど。


 強がってみても、頭の中に浮かぶ光景は、どれもこれも最悪だった。

 想像するだけで、胃がひっくり返りそうになる。


 気づいたら、涙が勝手に出てた。

 口の中は苦くて、ほっぺたが重力に負けて引きつっていく。


 泣き顔を隠すみたいに、俺は湯船に頭の先まで沈んだ。


(なんで、こんな嫌な目にばっかり遭うんだよ)


 ずっとそうだ。小学校の頃から、みんなして俺を踏み台にして、自分であろうとしてきやがって。


(クソが。なんであいつまで、俺に執着してくんだよ……ふざけんな。虚しい。あーあ、惨めだ。もうこのまま、苦しくなって、そのままいなくなって……)


 そこまで考えたところで、肺が限界の悲鳴を上げた。


 無慈悲に、俺の身体は湯船の中から浮かび上がる。


「ぷはあっ……!」


 視界が一気に明るくなる。身体が待ち望んだ空気が肺に充満する。


(クソが……。こんなんだったら、もう会社休んでやる……)


 風呂から上がって、タオルで適当に身体を拭きながら、俺は半ばヤケクソで決めた。


 脱衣所のベンチに腰を下ろし、スマホを取り出す。

 会社のメールアプリを開いて、総務と課長宛に宛先を入れる。


『体調不良のため、本日より一週間、休暇をいただきたく存じます』


 乱暴に打った文面を、ろくに読み返しもせず、そのまま送信した。



 それからのことは、あまりよく覚えていない。


 部屋に戻って最低限の荷物だけまとめて、さっさとチェックアウトした。

 陽向は、残りの仕事と報告を片づけるとか何とか言って、工場のほうに戻って行った気がする。


(報告くらい、あいつがやるだろ。そもそもここまで俺をぐちゃぐちゃにしたんだから、そのくらいの責任は取れ)


 会社なんて、知ったこっちゃない。

 一色の工場長だって、別に俺じゃなくていい。顧客なんて、優秀な営業マンなら誰でもいいに決まってる。

 代替可能性。それが資本主義のいいところだ。

 上位互換? なんとでも言え。そこに俺の居場所はない。


 自分のアパートに帰り着いたあと、俺は何したっけな。


 とりあえず、ベッドに倒れ込んで、泥のように眠った。二日くらい寝てた気がする。

 さすがに腹が減って、途中で一度起きて、冷やご飯に熱いお茶ぶっかけて湯漬けを食った。


(湯漬けって……切腹前の戦国武将かよ)


 自分で自分にツッコミを入れながら、また眠る。


 とにかく、今の俺は、有給休暇の真っ只中にいる。

 一週間。丸ごと俺の時間。


 気がつけば、もう半分以上が溶けてなくなっていた。

 あと三日で休暇が切れる。


(……どうしたもんかな)


 天井をぼんやりと泳ぐ視線が、そう呟かせた。

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