第9話 EQ全開! マシロちゃんの完全なるマウント
キッチンカウンターの陰で、私はトレイの上に三つのカップを配置した。
配置学的に、中央には客用の高価なウェッジウッド。右側には私のお気に入りのマグ。
そして左側――私が座る位置から最も近く、かつ手に取りやすい位置に、奏が愛用している少し欠けたマグカップを置く。
(……準備完了。これより、掃討作戦を開始する)
私は小さく息を吸い込み、表情筋を「健気な良い子モード」に再設定した。
トレイを持ち上げる。
重さは大したことないが、私はあえて少しフラつく演技を織り交ぜながら、リビングへと帰還した。
「……おまたせしましたぁ」
慎重な足取りでテーブルに近づく。
その瞬間、奏がバッと立ち上がり、私の手からトレイを受け取った。
「わっ! 危ないよマシロちゃん! 重かったでしょ、ごめんねぇ! ああもう、偉いねぇ、火傷しなかった!?」
「……だいじょうぶ。かなでのために、がんばったの」
私は健気な上目遣いで奏を見上げる。
奏の瞳が潤み、IQが急降下していくのが手に取るようにわかる。
よし。まずは味方の士気(?)を最大まで高めた。
次は
「……おじさん、どうぞ。あついから、きをつけてね」
「あ、ありがとう。……すごいな、本当に淹れてくれたんだ」
須藤は驚いた顔でカップを受け取った。
ふん。十歳児がお茶汲みをした程度で感動するとは、大人の想像力というのは実に貧困だ。
「……かなでは、これ。おさとう2つと、ミルクたっぷりのやつ」
「えっ!?」
奏が驚きの声を上げる。
「マシロちゃん、なんで分かったの!? 私が『今日は甘いのが飲みたい気分だなぁ』って、さっき心の中で思ったこと!」
「……うん。だって、かなでのかお見れば、わかるもん」
私は奏の隣に座り、彼女の腕にぴたりと寄り添った。
「かなで、おしごとしてるとき、眉間のシワが3本になるでしょ? あのときは、糖分が足りてないサインなの。だから、お砂糖多めにしたよ」
「マシロちゃぁぁぁん!! 愛してるぅ!! 結婚しよ!?」
奏は私の頭を抱え込み、わしゃわしゃと撫で回す。
私はその腕の中で、須藤に向かってチラリと視線を送った。
(……見た? これが情報の非対称性よ)
須藤はポカンとしていたが、すぐに気を取り直したように苦笑した。
「はは……よく見てるなぁ。神宮寺さん、愛されてるね」
「えへへ、でしょー? 自慢のパートナーだからね!」
奏はデレデレの顔で紅茶を
須藤はその隙を突いて、再び
「でも神宮寺さん、家では意外と甘党なんだね。会社じゃいつもブラックコーヒー片手に、深夜残業もバリバリこなしてる鉄の女なのに」
『俺は会社の君を知っている』アピール。
過去の共有。
仕事仲間としての連帯感。
彼は「オンの神宮寺奏」を持ち出すことで、私という「オフの付属物」を蚊帳の外に置こうとしている。
だが、それは悪手だ。
神宮寺奏という個体を攻略する上で、その二面性を理解していないことは致命的なミスとなる。
私はニッコリと笑い、爆弾を投下した。
「……でもね、おじさん。かなでね、おうちだと、くつした脱ぎっぱなしにするんだよ?」
「ぶふっ!!(紅茶を吹き出しそうになる奏)」
「えっ?」
須藤が目を丸くする。
私は畳み掛ける。
「あとね、お風呂あがりにドライヤーかけるの面倒くさがって、そのまま寝ちゃうの。だからマシロが、かなでの髪、かわかしてあげるんだよ」
「ちょ、ちょっとマシロちゃん!? それは内緒の約束じゃ……!」
奏が真っ赤になって私の口を塞ごうとするが、私はするりと逃れて続ける。
「それからね、かなでは夜、ひとりでトイレいくの怖がるの。だからマシロがついていってあげて、ドアの前で『雪だるまつくろう』歌ってあげるの」
「うわぁぁぁぁ! 言わないでぇぇぇ! 須藤くんに幻滅されちゃうぅぅぅ!」
奏が顔を覆ってソファに沈没した。
その姿は、バリバリのキャリアウーマンとは程遠い、ただの「残念な美人」だ。
須藤の表情が凍りついている。
彼の脳内にある「理想の神宮寺像」と、目の前で暴露された「現実の神宮寺像」が
「え、えっと……それは……意外というか……」
「……でしょ? かなではね、マシロがいないと、なにもできないの」
私はあえて「お世話されている子供」ではなく、「お世話してあげている保護者」の顔をした。
そして、沈没している奏の頭を、よしよしと撫でてやる。
「……だからね、おじさん。かなでは、イタリアンにつれていっても、たぶん途中でねむくなっちゃうよ? きのうも、おしごとおそかったから」
「あ……」
須藤が言葉を詰まらせた。
私が提示したのは、単なる「ダメな部分」の暴露ではない。
『今の奏に必要なのは、お洒落なディナーや大人の会話ではなく、家でだらだら過ごす休息である』という、最も合理的で、最も愛情深い事実だ。
奏の体調と精神状態を一番深く理解し、
それを突きつけたのだ。
「……うぅ、マシロちゃん……。ごめんねぇ、情けないお姉さんで……」
奏が涙目で私を見上げてくる。
私はその涙を指先で拭って、耳元で囁いた。
もちろん、須藤にも聞こえる音量で。
「ううん。そんなかなでが、マシロはいちばんすきだよ。……だから、今日はずっと、おうちでゴロゴロしよ? マシロがおひるね、トントンしてあげるから」
トドメの一撃。
「ありのままの貴女を愛している」という全肯定。
そして「外には出さない」という独占の鎖。
奏の瞳から、理性の光が消え失せた。
「……うん……! ランチ行かない! 今日はお家デートする! マシロちゃんにトントンしてもらうぅぅぅ!」
奏は須藤に向き直り、申し訳なさそうに、しかしきっぱりと言い放った。
「ごめんね須藤くん。せっかく誘ってくれたけど、今日はパスで。……私、この子の抱き枕にならないといけないから」
仕事よりも、デートよりも、私という抱き枕としての職務を優先する。
それは社会人としては失格かもしれない。
だが、ロリコンとしては満点の回答だ。
「あ、あはは……そっか。まあ、神宮寺さんがそう言うなら、仕方ないね」
須藤が引きつった笑みを浮かべ、カップを置いた。
敗北宣言だ。
彼は悟ったのだ。
この奇妙で、閉鎖的で、とろけるように甘い共依存関係の中に、外野が入り込む余地など1ミリもないことを。
「じゃあ、資料の確認は終わったし、俺はこれで」
「うん、ごめんね。また
須藤が立ち上がる。
私はわざわざ玄関までついていき、彼が靴を履く背中に向かって、最後の一言を投げかけた。
「……おじさん、バイバイ」
満面の、天使のような笑顔で。
心の中では中指を立てて。
(二度と来ないでね、泥棒猫さん。この家のセキュリティレベルは、貴方の想像よりずっと高いのよ)
「……ああ、バイバイ。マシロちゃん」
須藤は何か言いたげに私を一瞥したが、結局何も言わずにドアを開けた。
ガチャリ。
侵入者が排除された音が、心地よく響く。
「マシロちゃーん! 早くー! トントンしてー!」
リビングから、甘えた声が飛んでくる。
私は「はいはい」と心の中で答え、小さな勝利のガッツポーズをした。
戻ったリビングで、奏はすでにソファに横になり、私のためのスペースを空けて待っていた。
私はその胸に飛び込み、深く息を吸い込む。
「……ん。かなでのにおい」
「えへへ、私の匂い落ち着く? ねぇ、さっきの本当? 私のこと、一番好き?」
「……いちばんすき。カッコイイかなでも、ダメダメなかなでも、ぜんぶすき」
嘘じゃない。
だって、貴女がダメであればあるほど、私は貴女にとって「必要な存在」でいられるのだから。
「あぁ〜幸せ……。もう一生マシロちゃんに養われたい……」
「……それは無理。はたらいて」
私は奏の胸に顔を埋め、クスクスと笑った。
この温もりは、誰にも渡さない。
IQ200の頭脳と、EQ全開のあざとさを使って、私はこの場所を死守し続ける。
だって私は、貴女のことが――計算できないくらい、大好きなのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます